🆕要傳寺檀徒の系譜(その5)~要傳寺過去帳と開基檀越の井上家~

 要傳寺には、創建以来年およそ400年の寺檀(寺と檀家)の歴史を伝える、すべての檀信徒の記録が「過去帳」として格護されています。江戸の大火や明治の廃仏毀釈、大正の関東大震災や昭和の東京大空襲等々、数々の罹災を免れ、今日までこれらの史料が伝存し得たのは、ひとえに歴代住職による格護の尽力の賜であるといっても過言ではありません。
 過去帳の意義は、各家代々の先祖の生きた証や血縁の歴史を記録し、子孫へと継承していく「家の系譜(家系図)」としての役割を持つ点にあります。また、同時に、現在では歴史学・民俗学・社会学などの広範な分野・領域において、極めて一級の歴史研究資料(史料)として高く評価されています。
 この度、当山の寺報『法住』創刊第50号記念特集号(令和9年1月号)に、開基檀越子孫の井上徳之氏より、「井上家先祖のこと~江戸初期から幕末まで~」と題して寄稿いただきましたので、その要旨を以下に抜粋します。

井上秀栄の眠る井上家本家墓所(左)と井上義斐の眠る井上家分家墓所(右)

○井上伯耆守正就と井上河内守正利
 要傳寺過去帳には、近世初頭の古い記録に、「井上河内守の局」や「松平伊豆守の奥」などと言った、井上家の先祖に関係する記載が見られます。
 井上河内守とは、大名の濱松井上家2代当主・井上河内守正利(まさとし/1606-1675)のことです。正利が家督を継いだのは寛永5年(1628)なので、要傳寺開闢の元和元年(1615)当時の当主は正利の父で老中を務めた井上伯耆守正就(まさなり/1577-1628)でした。「松平伊豆守の奥」は「知恵伊豆」で有名な松平信綱(1596-1662)に嫁いだ正就の娘・隆光院です。要傳寺過去帳には、延宝元年(1673)の項に「隆光院殿日昌大姉」の法号が確認され、他にも井上正就・正利に縁の人物の法号(戒名)が見られます。

井上正就の娘で松平伊豆守の奥となった隆光院の記録(要傳寺過去帳より)

 井上正就は徳川秀忠(1579-1632)に仕え、大坂冬の陣・夏の陣(1615)に参陣しました。この年が要傳寺開山の元和元年になります。徳川家康(1543-1616)は翌年に亡くなりますが、正就は将軍秀忠の使者として元和の初めに駿府城の家康のもとに数日間滞在し、その時に直接聞いた話が『東照宮御遺訓』(井上主計頭聞書・いのうえかずえのかみききがき)です。
 正就は、元和8年(1622)に52500石を与えられて遠州横須賀藩(袋井・掛川の付近)の藩主となり、この頃から老中職を務めますが、在職中の52歳の時、江戸城で刃傷に遭い殺害されてしまいます。これが、「忠臣蔵」で知られる赤穂義士(あこうぎし)討入りに先立つ「江戸城内刃傷事件」の第1号となりました。
 正就の墓所は、父のために子の正利が建立した本源寺(静岡県掛川市)にあります。同寺の言い伝えでは、家康の「人の一生は重き荷を背負いて…」で知られる御遺訓は、正就の記録を元にまとめられたと伝えられています。
 ちなみに、播州赤穂浅野氏のルーツは、岐阜県土岐市肥田浅野のあたりとされています。浅野氏の祖とされる土岐光時(浅野光時)が築いた「浅野館跡」は、現在も土塁や堀の痕跡が残る城館跡として土岐市の指定史跡になっています。
 江戸城の刃傷で父を亡くした井上正利は、正保2年(1645)に遠州横須賀から常陸笠間に転封(てんぽう)となります。その時、入れ替わりで笠間から播州赤穂へ国替えになった前藩主が浅野家でした。現在も笠間城址の麓には、大石内蔵助(おおいしくらのすけ/1659-1703)の祖父が筆頭家老を務めていた頃の屋敷跡が残っています。
 井上正利の略歴を辿ると、寛永5年(1628)、正就の死去に伴い家督を継ぎ横須賀藩の藩主となります。正保2年(1645)に笠間藩へ転封、慶安2年(1649)に奏者番に列し、万治元年(1658)には寺社奉行に就任しています。延宝3年(1675)に享年六九歳で死去、その後、子孫は転封を重ねて「濱松井上家」として定着し、明治維新を迎えることになります。
 ところで、井上正就の娘は、旗本の久世広当(くぜひろまさ/1598-1660)に輿入れしており、井上家と久世家には仏縁があったようです。その関係もあるのか、要傳寺過去帳には、「久世出雲守の内」の記録がみえます。井上正利と久世家の深い関わりについては、宮﨑英修著『日蓮宗の人々』「不受不施(ふじゅふせ)護る久世家」(宝文館叢書、124頁)に詳述されており、それによれば、旗本の久世家は一族を挙げての熱心な法華信徒で、本妙寺(文京区本郷、のち巣鴨)を菩提寺としていました。久世広当・広之の兄弟のうち、兄の広当は池上本門寺の長遠院日樹(にちじゅ/1574-1631)上人に深く帰依し、井上正利やの酒井雅楽頭(うたのかみ)忠行(1599-1636)らとともに「不受不施(法華信徒以外からは施しを受けず、布施供養もしないという厳格な信条)」に強く同情を寄せていました。
 寛永7年(1630)、幕府の命により身延山久遠寺系の受不施派(じゅふせは)と池上本門寺系の不受不施派が対論させられた「身池対論(しんちたいろん)」が起こると、幕府の政治的意向により池上方は敗れ、不受不施派の高僧たちは各地へ流罪となりました。その際、中山法華経寺隠居の日顕(にちけん)上人が遠州横須賀へ配流となり、領主であった井上正利が身柄を預かることになったのです。
 指導者たちが流罪となる苦境のなか、後を託された小湊誕生寺の長遠院日遵(にちじゅん/1592-1654)上人は、井上正利や久世三四郎兄弟ら有力な外護者(げごしゃ)の支援を受け、寛永14年(1637)に下総国に玉造檀林(たまつくりだんりん)を開設しました。玉造檀林は、近世における日蓮門下の学問所で、幕府によって不受不施が禁制宗門(きんぜいしゅうもん)とされるまでの間、数多くの気骨ある人材を世に送り出しました。

本源寺の井上正就墓塔とその由緒書(井上徳之氏提供)

○天保の改革と井上備前守秀栄
 井上正利の墓所は、東京池袋雑司ヶ谷の日蓮宗本納寺にありますが、その妻と思われる先述の「井上河内守の局」は、要傳寺過去帳の明暦元年(1665)の項に見えます。「長昌院妙通日意」の法号を授けられ、要傳寺にある井上家の五輪塔墓に最初に葬られたことが記録から読み取れます。
 同墓の過去帳の記録で、次いで江戸後期に登場するのが、井上備前守秀栄(しゅうえい/-1847)です。当山の寺報『法住』7号(1984年)収載の寺伝では、この秀栄が開基檀越と紹介されておりますが、要傳寺開闢の元和元年(1615)とは200年以上の隔たりがありますので、開基檀越は別の人物(井上河内守の局を弔った人物か)で、秀栄は開基檀越の出身という意味ではなかろうかと思います。
 秀栄は、江戸の三大改革の一つ「天保の改革」(1841-1843)の最末期において、最大の肝いり政策であった「上知令(あげちれい)」の起案を主導した幕臣です。
 天保14年(1843)5月に勘定奉行に就任した秀栄は、老中・水野忠邦(1794-1851)が幕府権力の強化と財政再建を急ぐなか、土木・実務に長けた官僚として抜擢され、改革の現場指揮を一手に委ねられました。
 上知令は、防衛と直轄財政の強化を目的に、江戸・大坂周辺の大名領や旗本領を幕府の天領(直轄地)へ強制的に編入し、代わりに別の土地を与えるという強硬な法令でした。しかし、この政策は領地を奪われる大名・旗本のみならず、地域住民からも猛烈な反発を巻き起こし、秀栄は激しい利害調整の板挟みに苦しむことになります。
 また、江戸への舟運ルート確保と新田開発を目指した「印旛沼・手賀沼の干拓事業」にも深く関わりましたが、難工事による工費高騰や民衆への過重な負担から、現場の不満は頂点に達していました。そして天保14年(1843)閏9月、内外からの強い反発に抗しきれず水野忠邦は老中を失脚、改革は頓挫します。忠邦の失脚直前の閏9月6日、上知令を起案・推進した責任を問われた井上秀栄も勘定奉行を罷免となり、無役の寄合へと左遷されました。

清忠院殿(井上秀栄)の位牌(要傳寺蔵)

○井上元七郎胤隆
 井上秀栄の墓の隣には、もう一軒、分家と伝えられてきた井上家の墓が並んで建っています。両家の関係は、要傳寺過去帳からは判然としませんでしたが、『江戸幕臣人名事典』第1巻(新人物往来社)の「井上元七郎(義斐)」の項目に「養祖父 井上与市」という本家筋の人物名が明記されています。
 分家筋の要傳寺井上家過去帳の中に「与市の母」の記録があり、さらに与市の父の名が「元七」であったことから、分家が幕末に代々名乗った「元七郎」という通称の由来も明らかになりました。ここからの幕末の井上家の歴史は、分家を繋いだ「三人の元七郎」を巡る物語です。
 幕末の井上分家は養子縁組によって家系が継承されていきますが、初代から代々「元七郎」の名を受け継ぎました。初代・井上元七郎胤隆(たねたか/1755-1855)は「百一歳」という天寿を全うした人物で、嘉永6年(1852)、幕府が80歳以上の高齢旗本を調査した『御旗本長寿調』にも、当時99歳だった胤隆の名が記録されています。安永2年(1773)に西丸御広敷の役職に就いて以来、御林奉行などを歴任し、百歳を超えてもなお現役を務めた名物幕臣でした。

○井上元七郎義斐
 次いで、2代目元七郎を名乗った人物に、井上備後守義斐(よしあや/1816-1881)がおります。激動の幕末に大坂町奉行・勘定奉行・外国奉行などを歴任する実務派幕臣で、かつてNHK大河ドラマ『徳川慶喜』(1998年)にも登場しました。別名を茂輔(もすけ)、官途(かんと)は主水正(もんどのしょう)、のちに備後守と称しました。実父は木村平九郎で初代・胤隆の養子として井上家に入りました。
 安政3年(1856)に箱館奉行支配組頭に就任し、北方警備と開港の実務に尽力します。函館・五稜郭内に復元された箱館奉行所には、「井上茂輔」の名が記された「函府人名録」が伝わります。
 元治元年(1864)に目付へ進み、慶応元年(1865)5月には第2次長州征討に向かう第14代将軍・徳川家茂(いえもち/1846-1866)の上洛に随行。同年7月に大坂町奉行に任じられました。その年の秋、英米仏蘭の四か国連合艦隊が大坂湾(兵庫沖)に来航し、兵庫(神戸)開港の前倒しと修好通商条約の朝廷による勅許を武力威嚇を交えて強硬に要求してきました(兵庫開港要求事件)。幕府代表の若年寄・立花種恭(たちばな たねゆき/1836-1905)らが進退窮まるなか、義斐はイギリス公使パークスら各国代表の面前で血判を申し出て気迫でその場を収めて猶予を取り付けました。
 この外交・治安面での手腕を評価され、同年10月には、勘定奉行に抜擢され、翌年春まで大坂町奉行を兼帯。さらに慶応2年(1866)12月には対外交渉の最前線である外国奉行へ転じ、作事(さくじ)奉行や留守居などを歴任して瓦解寸前の幕府を支え続けました。慶応4年(1868)、幕府崩壊とともに官職を辞して隠居します。維新後は新政府に出仕して日光県大参事や群馬県参事を務め、大蔵省に奉職中の明治14年(1881)、65歳で世を去りました。
 先述の天保期に上知令などを担当した井上備前守秀栄が「内政・財政統制の勘定奉行」であったのに対し、幕末の井上備後守義斐は外圧と国内動乱が直結する緊迫した政治状況下で、外交・財政・治安の折衝を担った武闘派実務官僚の代表格とされます。

○井上元七郎義道
 慶応4年(1868)、幕府がフランス軍事顧問団の指導のもとで近代的な陸軍工兵部隊を新設した際、初代「工兵頭(こうへいがしら)」に抜擢されたのが、3代目の井上元七郎義道(よしみち/-1869)でした。工兵部隊の任務は、陣地や堡塁の構築、架橋や舟橋の設置、障害物除去、測量や地図作成、弾薬の管理など多岐にわたり、近代軍の機動性と防衛力の要となる専門技術集団でした。
 戊辰戦争後、徳川宗家が駿府へ移封されると井上家をはじめ多くの旧幕臣が静岡・沼津へ移住しました。義道も養子で、妻の順は2代井上元七郎義斐の娘です。しかし義道は沼津で病に倒れ、明治2年(1869)に若くして亡くなりました。墓は静岡沼津の法華宗本光寺にあります。本光寺は日蓮聖人が身延山へ向かわれる途中に宿泊された「車返しの霊場」とされる名刹です。境内の無縁墓の一角に「井上元七郎 源義道」と刻まれた当時の墓石が残されています。。
 その後、旧幕臣が生き抜いた明治は厳しい時代だったようです。義道に先立たれた順の長男・豊は、祖父・義斐のもとで勉学に励み将来を期待されていましたが早世してしまいます。その後、順が外孫である井上源之助を後継ぎとして養子に迎えるまでの約20年間、井上家の戸籍は順ただ一人きりでした。源之助の妻・志げは、順の思いを受け止め、義道が眠る沼津本光寺に井上家の墓碑を再建します。
 なお、一族の伝承については、佐藤雪洞(井上源之助の実兄)著『佐藤家の人びと~井上・北角につながる覚え書』(私家版)に詳しく、平成22年(2010)に『国立歴史民俗博物館研究報告』第158集にて翻刻されていますので、ご興味・ご関心がございましたら往見ください。

本光寺無縁塔に遺された井上義道の墓誌(井上徳之氏提供)

 なお、当山サイトに掲載した幕末・維新関係記事の一覧を以下に掲出いたします。併せてご覧下さい。
 ・第67作NHK大河ドラマ『ジョン万』放送決定!!~2年続けて描かれる幕末・維新~
 ・第66作NHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」放送決定!!
 ・幕臣 川路聖謨の特集番組放送
 ・NHK大河ドラマ「青天を衝け」と川路聖謨
 ・尾高惇忠と速水堅曹~NHK大河ドラマ「青天を衝け」に寄せて~
 ・富岡製糸所長 速水堅曹について(盂蘭盆施餓鬼会特別講演)~NHK大河ドラマ「花燃ゆ」に寄せて~
 ・高松凌雲と鶯谷医院
 ・鶯谷の鹿鳴館~陸奥宗光旧別邸~
 ・旧感應寺先師報恩法要・彰義隊遠忌法要
 ・上野彰義隊第150遠忌集録発刊
 ・上野彰義隊第150回忌墓前法要
 ・寺報『法住』40号(平成29年1月号)発行
 ・要傳寺檀徒の系譜(その3)~要傳寺過去帳にみる寺檀の歴史~
 ・【推薦図書】虎屋文庫編『和菓子を愛した人たち』(山川出版社)

NEXT

一覧へ