だんしんきょう 平成26年 2月号

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2月号
いつからかお祖師さまを、おそっさまと発音しており今もってそう口にするこ
とがある。孫たちは南無南無からののさまの時代を経てお祖師さまに代 わって
おり、感心なことに我が家にくると誰からも言われずに、仏壇の灯明をつけ、お
線香を立て合掌する。ありがたいことである。
家内も嫁いだ当初は、お題目を口ずさむことは大変であったように思われた
が、今でも方便品や寿量品も唱えている。
祖母の両親が信仰に篤く、祖父は祖母と結婚したとき日蓮宗に改宗したとい
う。祖父は熱心な信者であったことは言うまでもない。曾祖父母、祖父 母、父
母、私たち夫婦、息子夫婦、孫たちと六代はなんとか信仰を繋いできたが、その
あとが案じられる。末永くお祖師さまと一緒であってほしいと念 ずるだけである。
 
鈍色の光景
空も海も鈍色、黒ずんだ残雪の小山の前に、マンドリンと言われる自動小銃を
構えたソ連兵に囲まれ、数十人の男たちが寒さに耐えながら立ってい た。やが
て凍てつく雪も土も取り除かれ、棒杭と粗末な分厚い板で覆われた鈍色の水溜ま
りが目に入り、凝らして見ると、その水溜まりに累々と横たわ る影は死体で
あった。一瞬体がガチガチに固まってしまった。そのあとは胴長を着けた怖そう
な大人に怒鳴られ、同じくらいの少年と組み無我夢中で、 死体を粗末なお棺の
なかに押し込んだ。
ときには持ち上げた片方の大腿骨が抜け、悲鳴をあげたことも幾度かあった。
気づくといつの間にかお題目を口にしていた。ヌルッとした経験のない 感触は
もうなくなっていた。
時間も、鼻をつく嫌な臭気も気にならなくなったころ、作業が終わった。気づ
くと相棒の防寒着も顔も首も手もすべて鈍色。どうやって帰ったのか、 あの臭
気をどうやって消したかも忘れてしまったが、お題目を大声で唱えたことは、今
も記憶に残っている。戦後の樺太でのことだった。
お祖師さまのお力をいただいて
僅差で市長に当選し、登庁すると待ってましたとばかり着任団交という名の団交
が始められた。
十数年革新市政で進んだ財政の悪化。それにも関わらず、身勝手な主張に驚く
と同時に義憤を感じ、いやが上にもふつふつと闘争心が沸いてきた。は やる気
持ちを落ち着かせ、次なる対処を考えたけれど矢継ぎ早の攻撃にあった。とうと
う4百人をこえる集団団交の場に引きずりだされ、言質をとられ る始末であった。
人民裁判と言ったところであった。聞きつけた報道関係者や諸官庁から心配の
電話が入るなど、団交のやり取りなどを教えられ、二度目三度目からは 辛うじ
て交渉の仕方も要領を得るようになった。
その後の団交で、1時間も2時間も無言でにらみ合い、しびれを切らした委員
長が机を叩き「団交決裂」と宣言した。とうとうやったとの思いで悠々 と会場
から去った。この時もお祖師さまが護って下さると孤軍奮闘しながら心のなかで
お題目を唱え続けていた。翌日登庁すると市長室の机に交渉を再 開してくれ
と、書面が置かれてあった。総務部長に組合の団交も交渉も一切拒否することを
命じた。
お祖師さまが護ってくださると思うと、ボンクラ頭にも良い知恵が湧き出てく
る上、度胸もついてくることに手を合わせた。

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