だんしんきょう 平成28年 3月号

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全国檀信徒協議会常任委員
富山県檀信徒協議会会長
杉村 静一 氏

 私が檀信徒協議会会長を務める富山県(越中)は、真宗王国ともいわれるように浄土真宗の寺院の割合の高い土地です。そんななかで、日蓮宗寺院がどのように存在感を発揮してきたか、僧侶檀信徒が法華経の信仰をつないできたかを知りたいと思い、いろいろと調べてみました。みなさんも、自分の地域の日蓮宗の歴史を学んでみてはいかがでしょう。信仰を深めるだけでなく、郷土愛を育むことにもなるのではないでしょうか。
【越中の日蓮宗のはじまり】
 北陸教区のなかで唯一日蓮聖人の足跡があるのは、佐渡法難に遭われたときの越後のみです。また日像上人が永仁2年(1294)、京都に向かう途中、佐渡から舟で能登に渡り、加賀・越前と布教をしましたが、越中には立ち寄られませんでした。越中での日蓮宗の布教のはじまりは日蓮聖人ご入滅の約30年後になります。
 鎌倉時代の末期正和6年(1316)に日印上人の弟子の日順上人が婦負・井田に本法寺(現在は法華宗陣門流)を建立し、元亨(1321)頃に同じく日印上人の弟子・日暹上人が射水・頭川に蓮乘寺を建立したのが越中での法華寺院の始まりとなります。以来、約270年、為政者によって利用されたり弾圧や迫害に遭いながらも30余の寺院が建立されました。
【前田利長公と日蓮宗寺院】
 加賀100万石の2代目となる前田利長公は天正13年(1585)に豊臣秀吉から越中3郡を与えられ、守山城(射水郡)に入りました。その折、3つの日蓮宗寺院を召致しました。その後、本拠を富山城に移します。その時も日蓮宗のみ6ヵ寺を富山に移築させました。利長公は加賀100万石を相続し、加賀・金沢に移りましたが、3代目に家督を譲るとまた富山に戻りました。富山大火後は城を現在の高岡市に移しました。このときも日蓮宗寺院7ヵ寺を召致しました。もとよりあった1ヵ寺を含めこの8ヵ寺に寺領として1万3千坪を与えました。
 利長公は本拠を移転するごとに日蓮宗寺院のみを同行移築し、特別に扱いました。その理由として以下のことが考えられます。①初代利家公の側室・寿福院は羽咋の本山妙成寺を菩提所と定め、多くの日蓮宗寺院の建立を援助した ②日蓮宗は布教活動が熱心で、信徒を増やして城下町造りにも貢献していた ③寺領を与え広い境内や堅牢な寺門を造らせ有事に備えた。
 その後、富山藩として加賀前田家から分封され、2代正甫(富山売薬の元祖)から5代までと7、9、11代の藩主が日蓮宗に帰依しました。
【日蓮宗の現在】
 明治維新後の廃仏毀釈に遭い再建ならなかった寺院もあり、現在の富山県管区は33ヵ寺の寺院数しかありません。しかしご縁と苦難を分かち合うまとまりのある管区であると自負しています。護法大会や東日本大震災の犠牲者追悼と復興祈願法要などには、全寺院から500人から千人規模での参加者が集まります。私たち檀信徒は仏法僧三宝に帰依し、菩提寺の護持を図り、宗門の応援団としてその発展に努力していこうと思っています。
 

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