お彼岸、心の修養・六波羅蜜「持戒」

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秋分が近くなり、少しずつ気温も穏やかになってまいりました。
 
今年の夏は35℃を超える日がとても多くあり、ようやく穏やかな清々しい気候になった嬉しさがあります。
しかし涼しくなると今度は、少し夏の暑さや開放感が懐かしく、どこか感傷的な気持ちにもなります。
 
夏の暑さも去り、少し感傷的な気持ち、少し落ち着いた気持ちになるこの頃に、自身の事・こころの事などに思いを巡らせてみるのも良いでしょう。
 
お彼岸とは、彼岸会(ひがんえ)と言って、春分・秋分の日をお中日(おちゅうにち)としてその前後三日の七日間を春・秋の彼岸とし、この春・秋の彼岸のときに法会を行います。
 
春分・秋分の日は太陽が真東から昇り、真西に沈む、すなわち昼と夜の長さが等しくなります。この状態が、仏教の中道(ちゅうどう)<どちらにも片寄らない>という教えに合致しているとして、この日に法会を行います。
 
彼岸は梵語の波羅蜜多paramitaの訳で、到彼岸を意味します。煩悩・迷いの世界である此岸をはなれて悟りの境地である彼岸に到達するという意味があります。
彼岸と言っても、今生きているこの現実世界を遠く離れ、理想の別世界に往くということではありません、今生きているこの身このままに悟りの境地に到るように精進していくということです。
 仏教ではその為に、六波羅蜜(ろくはらみつ)という彼岸へ到る為の六つの実践方法を説くのです。
 
清々しい気候のお彼岸の時期というのは、最も仏教・神仏に対する敬虔な心が起こりやすいと言われ、静かに物事を考え、自分の行動を反省し、身体とこころを整えていくのにとても適しています。
 
特にこのお彼岸の時期を仏道修行の期間と捉え、六つの修行徳目である六波羅蜜(ろくはらみつ)をお中日の前後三日間に配します。
 
以前、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)についてとても簡略に書かせていただきましたが、今回はそこからもう少し掘り下げていきたいと思います。
 一度に書くのは難しいので、今回は「持戒」について。
 
以前に、【持戒(じかい)…自身を戒め、人に迷惑をかけない】と書きました、具体的にどのようなことか掘り下げてみたいと思います。
 
一般的に、「戒律」という言葉でイメージされることが多いと思います、戒律と一口に言うこともありますが、本来「戒」と「律」とは別の言葉で意味も異なります。
 
戒とは梵語silaの訳で、つつしみ・戒め・仏教に帰依した者が守るべき行いの規則・習性・反覆習慣的に修習すべき行いといった意味があります。どちらかというと、自律的な戒め・進んで行う善い習慣や行いといった意味合いが強いでしょう。
 
律とは梵語vinayaの訳で、生活上守るべき戒め・仏教教団の生活規則・おきて・仏弟子の悪行を戒め、その禁止と罰則とを規定した条項を集めたものといった意味があります。他律的なおきてのような意味合いが強く、法律のようなものと考えるとイメージしやすいでしょう。
少しややこしいのですが、律の中の条目も戒と言われ、同一視されることがあります。
律は条項、戒は行い、他律的なおきてがあり、それを自律的に行うときに本当の意味があると考えると少しイメージしやすいかもしれません。
 
それでは、実際にはどのようなものがあるかと言うと、五戒というものが一般的に一番よく知られているのではないかと思います。
五戒とは、在家の仏教信者が守るべき五つの戒めのことを言い、1・不殺生(生きものを殺さない)、2・不偸盗(盗みをしない)、3・不邪淫(妻以外の女性、夫以外の男性と交わらない)、4・不妄語(嘘をつかない)、5・不飲酒(お酒を飲んで乱れたり、他に害を及ぼさない)という五つになります。
もちろんこの五戒は出家者も守ります、古く仏教教団では出家間もない者は五戒と共にさらに五つの戒を足した十種類の戒を守り、さらにその後には男性出家者は二百五十戒、女性出家者は三百四十八戒とも数えられる戒を守っていきます。
 
今でも厳格に戒律を守る仏教教団もありますが、次第に細かな規定の一つ一つの条目を厳格に守っていくことよりも、三つの方向が重視されるようになっていきます。
 
その方向というのは、止悪(悪を止める)、行善(善い行いをする)、利他(他に利する行いをする)というものです。
 
さらに発展し、ただ一つの戒律を持つだけで良いと説かれていきます。
一乗戒と呼ばれ、日蓮宗では法華経を信じ持つことが持戒とされます。
 
二百五十や三百四十八もある戒律から考えると、とても簡単なようにも思えますが、実はそうではありません。
「信じ持つ」ということの捉え方がとても重要です。
 
仏教経典には、「信心」・「信解」・「信受」という言葉が出てまいります。
どれも「信じる」ということなのですが、少し意味合いが異なります。
「信心」は、仏の教えを信じて疑わない心。ほとんどの方はこの信じるということをイメージされるかと思います。分からなくてもとにかく信じるということにもなります。
「信解」は、信じて理解すること。確信し、了解すること。教えを信じ、理解して進んで向上しようとする意欲。という意味があり、盲目的に信じるのではなく、主体的に理解し、それをもって自ら進んで向上していこうという信じ方になります。
「信受」は、信じて受けること。信仰して受持すること。となり、信じたことを主体的に受け持つといった意味になります。持ち続けるということにもなるでしょう。
 
法華経には、「信解」・「信受」という語は出て来ても、「信心」という語は出てまいりません。
つまり、自ら進んで理解しようと努め、主体的に理解し、信じたものを受け持ち続けて、自ら進んで向上しようとすることが重要だということが言えます。
 
法華経のすべてを理解することは簡単なことではありません、しかし少しでも理解しようと努めて、少しでも向上していこうとする気持ちがとても大事です。
 
規定されたことを守っていくこと、やってはならないことをやらないように生活していくことは、初めの内はつらいものかもしれません、しかし一度慣れてしまえば普段の生活を続けていくことなので、さほど苦しくなることはありません。私たちも普段沢山ある法律を守って生活しています。
 
しかし今の自分より、少しでも理解を深めようとすること、少しでも向上していこうとすることには終わりがありません。
悪を止め、進んで善い行いをし、他の者に利することをする。
法華経には様々な教えが説かれ、その指し示す慈悲の精神には終わりがないのです。
 
今年のお中日は9月23日になり、持戒に配当される日は9月21日となります。
日本では敬老の日としても知られていますが、世界的な記念日でもあります。
 
国連によって9月21日は、国際平和の日と定められています。あまり知られてはいないかもしれませんが、実はこの記念日、日本とも関わりが深いのです。1981年に決議され、2001年に日付が9月21日に定められました。
 
なぜこの日が日本と関わりが深いかというと、この記念日を始めるにあたって国連本部に設置されているある鐘が打ち鳴らされるのです。
 
その鐘は、終戦まもない1951年の国連総会で日本国際連合協会からの「平和の願いを込めて、世界の人々のコインで平和の鐘を造りたい」という提案に、当時の国連加盟国の60ヶ国が賛同し、各国の代表からその国の硬貨やメダルが集められて鋳造された鐘です。
 
鐘は、日本の平和の鐘と名付けられ、1954年にニューヨークの国連本部に寄贈されました。例年、9月21日の国際平和の日に、国際事務総長、国連幹部、各国常任代表などの出席のもと、鐘打式が実施されます。
 
1994年、寄贈から40周年の式典において、当時の国連事務総長のブトロス•ガーリ氏はこのようなスピーチをされています。
 
「日本の平和の鐘は鳴るたびに、明確なメッセージを送ってきました。平和は尊いというメッセージをすべての人々に送り続けているのです。平和を願うのにはこれで十分ということはありません。平和には努力が必要です。それも長く、つらく、困難な努力です。」と。
 
国の根幹の戒めとして、非核三原則を持ち、
戦争の放棄、戦力の不保持、交戦権の否認を持つ日本だからこそ、その明確な、尊いメッセージを世界に向けて送り続けることが出来るのです。これは、日本が世界に向けて持ち続けるべき、そして日本にしか持ち続けることが出来ない大切な役割ではないでしょうか。
 
日本人が、世界に対して誇りをもって持ち続ける戒め、この先もずっと持ち続けたいものです。
 

ちなみに、提案をした中心人物の中川氏は菩提寺である仏教寺院に以前に鐘の寄贈をしていて、その時の鐘をモデルとして日本の平和の鐘が造られたそうです。国連本部のホームページを見ると、鐘楼堂は釈尊誕生に由来する花御堂を模していると紹介されています。
鐘の柱の土台には、長崎•広島両市の原爆被爆者から土台にしてほしいと、被爆地の土が贈られました。
完成した鐘は、横浜港よりニューヨークに向けて出港し、寄贈されたそうです。
 
国連本部HPでの紹介

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