子どもに聞かせたい!仏教の教え「なんでいっぱい取っちゃいけないの?」~お盆・お施餓鬼~

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「みんなー、おやつよー、少し休憩して食べてねー、暑いから麦茶も飲んでねー」
 
子どもたちは夏休み真っ只中です、友達を家に連れてきて、何人かで遊んでいる。
親として、おやつを出したり、麦茶を出したりと、よくある風景です。
 
「はーい」
 
本当に異常とも思えるほどの暑い日が続き、子どもたちが熱中症にならないように注意するのも一苦労です。
 
「みんなで仲良く食べて、麦茶もしっかり飲んでねー」
 
子どもたちはというと、注意もよく聞かずに、おやつと麦茶にまっしぐらです。
我先にと、おやつをいっぱい食べる子がいたり、麦茶ばかり飲む子がいたり、人の家だからと遠慮がちになる子、自分の家のだからと他の子にはあまりあげずに自分ばかりがおやつや麦茶を独り占めしようとするわが子も…。
 
「独り占めはダメよー、みんなで仲良く食べましょうね」
 
「…なんで?…みんなも食べてるし、ここはぼくの家だから、ぼくが一番食べたっていいじゃないか。お母さんはぼくのことが一番大切なんじゃないの?みんなだって自分の家の時はこうしてるんだよ」
 
「………」
 
貪り(むさぼり)というのは、三毒と言って善い心根に害を与える三つの煩悩(貪・瞋・癡)のひとつに数えられます。
 
餓鬼の心、慳貪の罪とも言われ、今日のお盆の由来となる説話も、この貪りの心によって餓鬼界に行き苦しんでいる母を、なんとか救おうと目連尊者がお釈迦様に教えを乞い願ったことに始まります。
 
目連尊者はある時、亡くなった母がどうされているかと思い、神通力を使って探してみると、餓鬼界にて飢餓にさいなまれ苦しんでいる母を見つけます。すぐに助けようと食べ物を与えますが、その食べ物はたちまち火に変わり母を苦しめてしまいます。
 
慌てて水を差し上げても、水は油に変わったかのように火の勢いを増し、余計に苦しめてしまいました。
 
手の施しようがなくなった目連尊者は、お釈迦さまに母の苦を救う方法を乞うと、「僧たちの修行(雨安居“うあんご”)が終わる時に百味の飲食“ひゃくみのおんじき”を僧たちに供養すれば、必ず母は餓鬼界の苦しみからのがれることができる」と教えられました。
 
目連尊者はその教えの通りにご供養し、これによって母を餓鬼界の苦しみから救うことができました。
 
この説話は、我々に様々なことを教え、気づかせてくれます。
しかし、この説話を聞いた方の中には、「僧たちへの供養」という部分がいくらか急な展開のように感じる方もいらっしゃるかもしれません。
では、このことについて少し考えてみたいと思います。
 
お釈迦様はなぜ「僧たち」への供養を勧めたのでしょうか?
 
未だ仏にならざる目連尊者が、自ら母を直接に救えなかったことは納得が出来るでしょう。
しかし、すべてのものをお救いくださるお釈迦様が、自ら救うのではなく、僧たちへの供養を勧めることでその苦をのがれる方法であると説かれるのです。それはなぜなのか?
 
貪りの心とは、全体のことを考えない、自己中心的な考えや行動のことを言います。
 
餓鬼界にいる母を見た目蓮尊者の驚きと悲しみは計り知れないものです。
きっと我を忘れて母を救おうとしたことでしょう、餓鬼界の他の餓鬼には目もくれず、ただ母一人を救おうとした。
ひとりよがりの心を持っての救いは救いとはならず、かえって母を苦しめてしまったのかもしれません。
 
「僧たち」というのは、「十方の聖僧」とも訳されます。
「十方」とはあらゆる方向、つまりあらゆる場所にいる尊い僧侶ということになります。
「十方の聖僧」への供養とは、1ではなく全体を意識させるものです。お釈迦様は、その時の目蓮尊者のこころを観て、「十方の聖僧」への供養を促したのではないでしょうか。
 
全体のことを考えない、ひとりよがりの心を捨てた目連尊者のご供養が、やがて母へも向かい救われたのではないかと思うのです。
 
子どもにおいても、全体を考えない、ひとりよがりな考えで行動し続ければ、やがては周りがまったく見えていない寂しい人生を歩んでいくことにもなりかねません。
 
さて、先ほどのわが子が、友達と外へ遊びに行ったのに心なしか早くに帰ってまいりました。
 
「おかえり、なんだか早かったのね」
 
「うん…、一人の子が、なんだか疲れたし、のども渇いたから帰るって言い出したら、おれもおれもって、結局みんな帰っちゃった…、つまんないの…」
 
「そうなの…、おやつの時にちゃんとみんなにも飲んでもらっとけばよかったのかもね」
 
「…だって…」
 
「…お母さんね、考えたの。○○ちゃんのことが大切だから、みんなのことも同じように大切に思えるのかなって。○○ちゃんも、自分を大切に思うのと同じようにみんなのことも大切に出来たらよかったのかもね、一人じゃつまんないもんね、みんなで楽しくが一番楽しいもんね」
 
人々は繋がって生きています。様々なご縁のもと、すべてのものが繋がり、すべてのものが生かし生かされています。
貪りの心を起こして振舞うと、結局は自分を損ねることになります。
自分一人ではない大きな視点を持って、自分を慈しむと同時に他者をも慈しむ。
そうすれば、きっとみんなで平和に生きていくことが出来ることでしょう。
 
お盆の時期となり、先祖供養を行う時に、自分の存在が決して自分一人によるものではないことに気づかされます。
自分自身の存在の尊さに気づけた人は、同じように他者の尊さにも気づけることでしょう。
 
すべてのものが繋がって存在し、自分を含めたすべてのものが尊いと気づいた時に、本当に貪りのこころが消え、慈しみに包まれた世界になるのではないでしょうか。
 
大切なのは、少しのことで充分に足りていることに気づき、そして行動することです。
 
自分には足りていると気づけば、足りていない者に与える。
 
今を生きている自分たちばかりでもなく、後から来るものたちの為にも。
 
もし争いが起こっても、自分の尊さ、相手の尊さ、今を形作ってきたものたちの尊さ、今を生きるものたちの尊さ、そして後から来るものたちの尊さ、すべてのものの尊さに気づき、存分に尊重しながら対話をすることで、本当に全体が平和になる道を探せるのではないでしょうか。
 
自分が、自分が、ではなく。
まずは自分から、貪りのこころを手放してはみませんか。
 

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