追われた鬼はどこいくの?(節分豆まき)

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安立寺にて、2月3日午後3時よりやくよけ開運のお経、午後3時半より節分豆まきを行います。
立春の前日の節分に「節分追儺式」や「節分会」といって法要を行います。
立春・立夏・立秋・立冬などの節季の前日を節分と呼びますが、今日では立春の前日をさすことが一般化されています。
古来、東洋の暦では立春をもって正月とされていました。
二十四節気でいうと、立冬より冬が始まり、小雪ー大雪ー冬至ー小寒ー大寒と過ぎて行き、節分を迎え立春より春、1年の始まりとされていました。
現在のように寒い最中の年越しではなく、冬を乗り越え、あたたかさを感じるようになってから1年が始まっていたのですね。
節分豆まきは、一般にもよく知られ、時節の変わり目に厄除けをする行事だと思われていると思います。

「鬼は〜外〜、福は〜内〜」と掛け声を発して豆を投げる、鬼を追い出し、福を招き入れる……。
 
 
「福は入ってきてもいいけど、じゃあ、追われた鬼はどこにいくの?」
 
 
こどもの頃、こんなことを思ったことはありませんか?
こどもは、このような素朴な疑問を持つものです。
こども心に、追われるばかりの鬼がかわいそうで、なんだかさみしい気持ちになったりもします。
 
現実に引きくらべても、いやな人をただただ追い出す、わるいと決めつけて一方的にみんなで追いつめる、こどもがそんなことをしていたらどうでしょう。
さみしいことだと諭して、行いを正そうとするのではないでしょうか。
 
ご存じない方も多いかもしれませんが、
安立寺で行う豆まきでは「鬼は〜外〜」という掛け声はかけません。
 

古来より、「豆まき」と言う時は作物の豊穣を祈念する予祝行事。
「豆打ち」と言う時は駆疫・邪鬼を払う行事であるという言葉の違いもありますが、最大の理由は、
法華経では行者・人々やこどもを守護する善鬼がいらっしゃるためです。
遠い昔、こどもをさらって食べてしまう悪い鬼がいました。
行いを改めようとしない鬼を見て、お釈迦さまは数百といる鬼のこどもの内、その鬼が最もかわいがっていた末の子を隠してしまいます。
鬼は荒れ狂い探し回りますが見つかりません、大変に嘆き悲しむ鬼を見てお釈迦さまは、たった一人のこどもでも失うことは本当に悲しいことだということを教え諭します。
そのことに気づき、今までの行いを反省した鬼は仏教に深く帰依し、行者の守護、そしてこどもの守護を誓われるのです。

今日では、その鬼は行者守護・子育て・安産・子授かりの善神となり、寺院に祀られております。
 
仏教では、心の中にも鬼がいると教えます、例えば言葉という鬼
「きらいだ!」「どっか行け!」「顔も見たくない!」
気持ちがどうしようもなくなってしまったら、ためるより吐き出してしまった方が良い時もあるかもしれませんが、
 
心から外に出ていった鬼はどこに行くのでしょう。
 
きっとそれは、その言葉を言われた人の中に留まり、次はどうやって出ていこうかと機会をうかがっているかもしれません。
 
自分の中にいる鬼は、追い出すのではなく制する、自分の中にある福徳(仏の心)を大きくし、鬼が暴れるのを防ぐのです。
大人でもなかなか難しい時があります、特にこどもには優しく教えていきたいものです。
 
さて、お寺では「鬼は〜外〜」という掛け声をしないと言いましたが、ではなんと掛け声をかけるのか?
お寺の本堂ではこのように掛け声をかけます。
 
「福は内、福は内、福は〜内〜」
 
お寺にお参りの方々の、福徳が大きくなりますように。

 

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