最近、「マインドフルネス」が流行っているようです。
ストレスを軽減できる効果や、こころを整える効果があるとして、日々の仕事に疲れている方への癒しとして、または精神疾患などの方に対する新しい認知行動療法として、広く応用されているようです。先日はNHKのテレビ番組でも取り上げられておりました。
様々な応用の為に、欧米ではその研究が盛んに行われていますが、日本でもそれを受け、研究所や学会が立ち上がり応用の研究がされているようです。
では、そのマインドフルネスとはなにか?
現在、一般に広まっているマインドフルネスとは、欧米を中心に広まった自己洞察を深めてゆく仏教の瞑想が発祥となるでしょう。
ベトナム出身の禅僧であるティク・ナット・ハン師が、南フランスにPlum Village Mindfulness Practice Center(通称プラム・ヴィレッジ)を1982年に設立し、社会活動をしながら、マインドフルネスと訳される瞑想の指導・普及をフランスとアメリカを中心に始められます。
現在では世界各地にプラム・ヴィレッジが設立され、その活動は大きな評価を得ています。2011年にはアメリカ連邦議会やGoogle本社などでもティク・ナット・ハン師による瞑想・マインドフルネスの指導が行われたようです。
iphoneやipod・ipadの生みの親であるスティーブ・ジョブズも、その革新的な製品を発表している時代に、仏教の瞑想を生活に取り入れ実践していたことは有名な話です。
仏教の瞑想には大きく分けて二つのものがあります。
サマタ(śamatha)とヴィパッサナー(vipaśyanā)、伝統的に「止」と「観」と訳されます。
止というのは、観察する対象を一つのものに定め、その対象化されたものとこころの働き(気づき)を一つにし続けていくことで、様々に動こうとするこころの動きを、次第に静めていこうとするものです。
観というのは、こころを静めた後に、少しずつ気づく対象を拡げていき、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)すなわち視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚・そして意識や考え・感情など感じ取られるすべてを一つ一つ対象化し、そのままに観察し続けていこうとするものです。
瞑想をすることで得られるものは様々です。
止の瞑想では、様々に想起される物事によって起こる、こころの反応が静められます。
例えば、なにも考えていないつもりでいても、急にぱっと「今日あの人からあんな事を言われて嫌だったな」、「明日はあれをやらなきゃいけないな、気が重いな」など、人はその時に思い起こさなくても良いことをなぜか急に思い出し、再度嫌な気持ちになったり、気を重くしてしまったりするものです。
そういったものを想起されないようにコントロール出来れば、確かにストレスの軽減になるでしょう。
仏教では特に「観」の瞑想が重要視され、「無常」「苦」「無我」という根本的な智慧が体得される瞑想であると考えられていますが、様々な功能の中から、日々の生活に効いていくものを挙げるとすれば、
観の瞑想では、対象化したものをそのままに気づいていくことで、その先にこころの反応が進むことを防げます。
例えば、「血の付いた包丁」の写真があるとしましょう、それを見てイメージし、なんか嫌だなと思う人は多いかと思います。しかし、生まれて間もない赤ん坊などはそれを見てもそのような反応はしません、というのも人間は経験によって物事をイメージし、そこから感情が起こる為です。魚をよく捌く板前さんなども、そのような写真を見ても特に嫌な感情は持たれないでしょう。
このように人は、その経験によって、物事をイメージし、感情を起こすのです。注意しなければいけないのは、まだ経験のない赤ん坊は何も考えずに見ているのではなく、そのものをそのままに見ているので、感情に直結していないということです。このように物事をそのままに観ていると、何かを見てもその先に反応が進まない(イメージや感情に直結しない)ようになっていきます。嫌なことをしてきた人や言ってきた人を見かけても、嫌な気持ちにまではならずに、ただそこにいるなと観ることが出来るようになります。
他にも様々な功能があり、また仏教の歴史の中で行法として様々に発展していきます。
坐禅、阿字観、只管打坐などインドから日本に仏教が伝えられていく中でも様々な発展があり、日蓮宗では唱題行という行法の中にこの瞑想の功能が期待できます。
テレビ番組では「マインドフルネス」が取り上げられていましたが、こういったことは出てきてはいませんでしたので、少しでも知っていただければと思います。
最後に、「止」「観」双方の瞑想で古来より用いられている方法についてご紹介いたします。それは呼吸、「息」です。
伝統的には「入息出息観」と呼ばれ、入る息について「入る」と捉え、出る息について「出る」と捉えます。
ちなみに、人間のいのちとは何か?ということが古代インドでは追求され、ギリシャ語やラテン語の語源にもそのような解釈が成り立つそうですが、いのちとは「息」であるという考えがあります。生きているとは、息をしているということ、つまり人間の最小の活動が「息をすること」であるということです。心臓も動いてはいますが、自身で意識しなくても動き、こころが落ち着いていくと感じられる動きも小さくなって、見つけにくくなります。その点「息」はどこまで行っても微細な意識の中で行われるので、観察しやすいということも言えるでしょう。
さて、「止」では、入る息に「入る」、出る息に「出る」と気づき、それのみに専心します。もちろん途中で様々なものが想起されますので、その場合はそれをそのままに気づき、また息の観察に戻ります。それを繰り返し行っていく中で、こころの働きを静めていきます。
「観」では、こころの働きを静めたならば、感じられるものすべてをそのままに観察していきます、「入る」「出る」、「見ている」「聞いている」「嗅いでいる」「味わっている」「触れている」「考えている」。続けていく内に「生じては滅する」ということを観じ「無常」が体得されていくと言われます、そしてさらにその先へと。
説明するのも難しいですし、これだけでは分かりにくいかと思います。仏教は実際に体験される智慧を重視するものです。
もし気になれば、実際に行って体験してみて下さい。
例えば、寝たくてもなかなか寝られない、休みたいのに色々な事が思い起こされてなかなか休まらない時。止の瞑想で「息」にこころの働きを結び続けてみてください。上手く行けば、こころが静まってぐっすり寝られるかもしれません。
※参考文献、箕輪顕量著『仏教瞑想論』・中村元著『〈生命〉の倫理―構造倫理講座Ⅲ』