先日の北海道での勉強会。
数年ぶりに懐かしい顔と再会した。大学時代、日蓮宗の学生寮で同じ釜の飯を食った後輩、佐々木上人だ。
あの頃の寮生活は、今思えば独特だった。
一部屋を半分ずつ分け合う四畳半。外出制限あり、門限あり、そして…アクセサリー禁止。
「修行の身なのだから当然だ」と今なら思えるが、当時はまだ大学生。自由を求める心は消えていなかった。
そんなある日、入寮したばかりの佐々木くんの手首に光るものを見つけた。
腕時計型のブレスレット…
先輩として私は言った。
「外せ」
純粋な目で彼が言い返す。
「これは腕時計です」
「いいから外せ」
理由なんて説明できなかった。ただ、そういう決まりだったからだ。
勉強会のあと、そんな昔話で笑い合った。
「いやぁ、あれは時計でしたよ、先輩」
「そうだったかもな。でも、当時は必死だったんだ」
「ですよねぇ。じゃあ、そのネクタイは装飾品じゃないんですか?」
二人で顔を見合わせ、声をあげて笑った。
あの頃の厳しさが、今では懐かしい思い出に変わっていた。
今になって思う。
装飾品は、時に「差」を生む。
それが優越感や劣等感を呼び、心を乱すこともある。
修行の場では、誰もが同じ立場で、同じ心で学ぶことが大切だったのだ。
そしてもう一つ。
外側を飾ることで、無意識に“人からどう見られるか”を気にしてしまう。
でも修行の場で求められていたのは、“内側の心”を整えることだったのだと思う。
人生には、意味が分からないまま従わされるような経験がある。
そのときは理不尽に感じても、時が経てば「あの時の意味」が見えてくる。
過去は変えられないけれど、過去の“意味”はいつでも塗り替えられる
佐々木上人と笑いながら思った。
「だからこそ、あの苦い経験が今の学びになったんだ」と。
そして、今の私たちはその思いを胸に、あの日の自分を少し誇らしく思えるのだ。


