「葬儀」後の「葬儀」

師父が遷化してから、十日ほどが過ぎました。

不思議なもので、深い悲しみの中にあっても、僧侶としての務めは止まることがありません。
通夜があり、葬儀があり、告別式があります。
大切な方を亡くされたご家族の前に立ち、読経し、言葉をお伝えする時間があります。

師父の葬儀を終えて間もないこの十日の間にも、葬儀をお勤めするご縁を二ついただきました。
昨日もまた、お通夜の席に立たせていただきました。

故人さまのお人柄をお聞きしていると、思わず胸の奥で笑みがこぼれました。
頑固で、自分の思った通りに進まれる方。
一度決めたことは曲げず、信念を持って歩まれた方。

「ああ、うちの師父だけではなかったのだな」

そう思うと、少しだけ可笑しくなりました。

きっとご家族も、ご苦労されたことがあったのだろうと思います。
けれど、その頑固さも、わがままに見えた一言も、思い通りに進もうとした背中も、やがては不思議と、懐かしく、温かい思い出に変わっていきます。

私は今、それを少しだけ知っています。

師父を亡くしてから、葬儀に向かう自分の心が変わったように感じています。
以前から、ご遺族に寄り添うつもりでお勤めしてきました。
けれど、今はその言葉の重みが、以前とは少し違います。

大切な人を亡くした方の前に立つということ。
残された人の胸の奥にある、言葉にならない寂しさのそばに立つということ。
それがどれほど慎ましく、どれほど尊い務めであるかを、師父の死が私に教えてくれました。

昨日のお通夜でも、ほんのわずかかもしれませんが、ご家族の心に寄り添える言葉をお伝えできたように思います。
それは私の力というより、師父が最後に残してくれた学びのおかげなのだと思います。

昔から、
「喪主を務めて一人前」
と言われることがあります。

その意味が、今になって少しわかる気がします。
悲しみの中心に立ち、送る側の痛みを知って、初めて見えてくるものがある。
失って初めて、届く言葉がある。
泣いた人にしか、拭えない涙がある。

もしかすると私は、ようやく僧侶として一人前への入り口に立たせていただいたのかもしれません。

ただ、その姿を師父に見せられないことだけが、少し残念です。

けれどきっと、師父なら多くを語らず、いつものように少し不機嫌そうな顔で、
「まあ、しっかりやれ」
とだけ言うのでしょう。

その声を胸に、今日も告別式へ向かいます。

悲しみは、人を弱くするだけではありません。
誰かの悲しみに、少し深く寄り添える心を育ててくれることがあります。

師父の死は、私にとって大きな別れでした。
しかし同時に、僧侶として、人として、もう一歩深く歩むための教えでもありました。

今日も、残された方々の心に、少しでも温かな灯をともせるように。
師父が歩んできた背中に恥じぬよう、静かに、丁寧に、お勤めしてまいります。

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