当山は、永仁六年(鎌倉時代1298年)
日蓮大聖人の直弟子「天目上人」が、大内台(おうちのだい)に法華堂を建立し、
本光院と名付けられたのが始まりと伝えられています。
慶応十五年(1610年)茂木藩初代藩主「細川興元公」(細川幽斎二男)が、
茂木の地を与えられた時、当寺も現在地を賜り、
その後、二代藩主「興昌公」の時代、当寺十二世日円上人の手で、現在地に移転しました。
当地は、茂木城下より見て、宇都宮・益子方面の入り口に当たり、
いざ戦の時には兵士の宿泊所に指定されておりました。
周辺には番の前(ばんのまえ)門側(もんぱた)等の関連地名が残っています。
以来、現在地で、茂木藩家臣団を中心に、信仰が守られてきました。
二代藩主興昌公の奥方(伊予大洲藩初代藩主 加藤貞泰公の息女)は、
法華の信仰厚く、細川家へ嫁ぎし後も、当寺に深く帰依して法華の信仰を続けました。
寛文十一年(1671年)四月二十六日、興昌公の奥方逝去。
生前の信仰を元に、本堂裏に墓所を作り埋葬しました。
(法号 浄珠院殿受光日清大姉)
三代「興隆公」息女 亀姫、肥後新田藩初代藩主「細川利重公」に嫁ぐも、祖
母の信仰を引き継ぎ当寺に帰依しました。
興昌公の息女 鶴姫(初代興元公の息女との説もある)と共に供養塔が、
興昌公の奥方の墓所両脇に建立される(建立時期不明)
宝永の頃、本光院を本岡寺に改号する。