武田 家治 氏
全国檀信徒協議会副会長
大阪府大阪市檀信徒協議会会長
昨年来新型コロナウイルスが全世界に蔓延し、大変な状況下にあります。私たち人類は一番大切ないのちはもとより、経済ほか全般に渡っての危機にさらされています。
今もまだ大変な状況下にあり、日蓮聖人降誕800年記念行事が昨年来ほとんど中止や規模の縮小での対応となっています。
私は昭和18年3月生まれの満77歳、数え79歳です。今の危機的な状況を、太平洋戦争の戦中に生を享けた者としては、戦後の混乱の時代と重ねて見てしまいます。このような国難とも言える危機の時こそ、希望を持って前に進まなければならないと思っています。
戦争自体のことはほとんど知りませんが、終戦直後のことは鮮明に記憶に残っています。私の生家は大阪市森ノ宮の砲兵工廠(極東一の大きな軍事工場)の正門の商店街にありました。 戦災を受けた後は大阪は、一面焼け野原で何もなくなりました。市内の建物といえば、大丸、そごう、阪急各百貨店と曽根崎警察署ぐらいだったでしょうか。それはそれは今では表現できないよう悲惨な、無残な焼け跡でした。
栄養失調で亡くなった人、戦災孤児(父、兄を戦地で、母親、姉を戦災で亡くし、身寄りを失って生き残った子どもたち)があちらこちらで見受けられ、大阪駅の中央のコンコースには、そんな人たちであふれんばかりでした。今から思えば、どのようにしていのちを繋いできたのか不思議なくらいです。着る物、食べ物などは乏しく、だれも助けるどころではありませんでした。
私どもの家も昭和20~22年前半ごろまでは食べ物はなく、芋のつる、草などで生きながらえていました。家族も栄養失調で、お仏檀の前で立ち上がれず寝ころんでいた状況でした。そのような困難の時代を私たちは生き抜いてきました。そして昭和24年から26年ころになると、市内の中心部ではようやくネオンサインが輝き始め、エスカレーターが動き出し、あっという間に復興を果たしました。今でいう公助などまったく期待できない中でのことでした。
今、菅義偉内閣総理大臣は自助、共助、公助と国民に呼びかけていますが、何事もまずは、自分の力で生き抜くんだという気持ちが大事だと私は思っています。戦後の厳しい時代を生き抜いた私の原動力となったのがお題目でした。苦しい時、辛いときに唱えたお題目が支えとなって生き抜くことができたのだと信じています。
まず、強く逞しく生き抜かなければなりません。困難な時代を生き抜くには、しっかりとした信仰心を持つことが何より大事ではないでしょうか。間もなく降誕800年を迎える日蓮聖人は、そのことを身をもって私たちにお示し下さっています。お題目を支えに、みんなでこの困難を乗り切っていきましょう。
何でもかんでもお助けお助けでは将来に付けを回すだけです。その付けは誰が補填するのでしょうか。お題目で戦後の苦しいなかを乗り越えた私の経験を伝え、どういう過程を経て戦後の日本が築かれたのかを後世に伝えようと思い、筆を取りました。
南無妙法蓮華経