私が総代をつとめる堀之内妙法寺は、古くから厄除けのお祖師さまとして知られたお寺で多くの檀信徒さんが参詣に訪れます。ありがたくも先祖代々のご縁をいただき、お祖師さまのご加護を頂いております。このお祖師さまは、日朗上人が日蓮聖人のご尊像として彫刻し、日蓮聖人自ら開眼なさったご尊像で、江戸時代には日本橋まで出張して御開帳するほど人びとの信仰を集めました。
現在、妙法寺の檀信徒への取り組みとしてはお会式など数多くの行事があり、最も長く歴史のあるものとしては「法華千部会(お千部)」があります。法華経一部八巻二十八品すべてを都合一千回読誦しているのは、現在では全国でも我が菩提寺のみで、明和4年(1767)頃からの年中行事として、200年以上経た今でも変わらずに続いています。毎年5月11日から13日までの3日間、多くの僧侶と檀信徒が共に一心不乱に、お祖師さまの前で法華経の読誦をする姿は圧巻です。また、現代では「御題目道場」として、方便品やお自我偈を唱える機会や、「読誦道場」と称して初心者の方でもわかり易くゆっくりと読経するなど毎月定例で行っており、お祖師さまの教えを弘める機会を、伝統を守りながら社会の時流に合わせた柔軟な活動を通じて行っています。多くの檀信徒それぞれの人生の中で法華経に触れる、求める、与えるという機会を永く提供してきた寺院の一つであると思います。
私は「南無妙法蓮華経」と唱えることだけを教育されてきましたので、意味もよくわかりませんが、知れば知るほど奥が深く、理解しようとすれば夜の大海に放たれたメダカの如く、漂うばかりです。恐らく多くの檀信徒の皆さまも同じように迷って(?)おられる方も多いのではないかと思いますが、この大海に泳ぐメダカの水先案内人として、お上人がいるわけですから、お上人には夜の暗い海を照らす蝋燭のように導いていただきたいと思います。サーチライトのような強烈な光を求めているわけではありません。メダカにはそれぞれ大きさや経験が違います。ですから見通せる距離は人それぞれに違います。法華経は完成された、一言一句の加筆と修正が許されない絶対的なものならば、それぞれのメダカに適した光(解釈と応用)を求むる今日この頃です。「日蓮宗門として」という画一的な考え方よりも、一匹のメダカ(私)に対する、一人の水先案内人(お上人)によって、それぞれの人生を照らしていただく一助を宗教に求めます。これには途方もない苦労があるやに見えますが、日蓮聖人が歩いた道、伝えたかったお釈迦さまの教えには、効率の良い近道はなく、あるのは王道のみと考えます。現在のような高度情報社会だからこそ、日蓮宗だけは、効率は悪くとも、人と人で繋がる信仰であってほしいと願っております。そのために一匹のメダカとして、この暗い大海を僧侶檀信徒一体で明るくしていきたいと願っています。(了)
檀信徒協議会副会長 相澤弥一郎