11月19日、御題目講 「みんなちがってみんないい」

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こんにちは、副住職です。
今月も19日、当山妙恵寺に於いて檀信徒の皆様と共に御題目講を奉行することが出来ました。
お越しくださいました皆様、誠にありがとうございました。 

今回の住職による法話は、日蓮聖人の御遺文の中でも有名な『如説修行抄』の中の「現世安穏の証文、疑いあるべからざるものなり」という一節に関してでした。
 
この『如説修行抄』が書かれたのは、佐渡流罪中の文永10年5月といいますから『観心本尊抄』の翌月と考えられています。
「如説修行」という用語は、仏様の教えを、教説の通りに受けとめて修行しなさいよ。という意味で、法華経の中にたびたび出てまいります。
私たちは、仏様の教えをいただきながら、どうしても自分に都合の良いように解釈したり、自分本位にとらえてしまって、「いいとこどり」になってしまうことがよくあります。
すなわち仏様の教えを自己中心的に受けとめてしまう傾向があるのではないか。しかもそのことに気が付かないという問題があるのではないでしょうか。
日蓮聖人は、法華経の教えをお釈迦様の真実の御心として受けとめ、自分の都合にあわせるのではなく、法華経の教えの通りに随順し、実践しようとする生き方を貫かれました。
お釈迦様の説かれたお経の中には、しばしば未来を予見するような内容が説かれます。すなわちお釈迦様が入滅された後の時代になると、だんだんと人間の精神が衰退して、人の心が荒(すさ)んでしまい、世の中の秩序が乱れるであろうと。さらには、仏の教えなんか自分たちには関係ないという個人主義的な考え方や、その時だけ楽しければよいというような刹那主義的な考え方に陥っていくであろうと予測されています。
人間たちが自分本位な考え方に染まっていくと、仏教のもつ人間の心を安定させる働きが失われ、社会に対する規制力も機能しなくなる。そうすると、みんながバラバラで、人間の欲望が剥き出しになったり、やりたい放題になり、社会がどんどん疲弊していきます。現代社会においては、まさしく暴動やクーデター、あるいはテロ事件等が日常茶飯事のように起こっています。
そういった時代のことを仏教では「末法」といいます。「世も末だ」というのはこの「末法」のことを指しています。
これ以上、社会が悪くならないように、歯止めをかけるためには、仏様の教えと真摯に向き合い、教えの内実を身をもって社会に示そうとする人が必要であると、法華経にはそのことが予言的に説かれているのであります。
この末法の日本国において、日蓮聖人はこうした仏様の真の教えに出会えたことを最大の悦びとされ、自ら使命感をもって、法華経の教説に積極的に随順しようとされたのです。
つまり日蓮聖人は、法華経に示された教えを、末法の現実社会に生きた教えとして蘇らせるためには、自らの生命を賭ける覚悟をもって、教えの通りに実践することが必要であると考えられました。
 
「仏教」といえば、一般的なイメージとしては、人の心の内面の問題や、哲学的な課題を説いていると考えがちです。これに対して日蓮聖人は、人間は社会的な存在であることから、「仏教」は社会が直面するさまざまな課題を克服するための智慧を説いているという面を重視されました。
それゆえに、日蓮聖人は当時の社会が危機的状況に置かれている現実を直視し、社会の立て直しを図るべく、当時の為政者に対して、仏教に基づく正しい理念を持たなければならないと進言されたのです。
日蓮聖人は、お釈迦様の説かれた教えは、いずれも私たちの生きる現実社会を想定した「未来記」であると受けとめられました。経典の中には、地震や風水害などの災難が起きるというのは自然界からの警告であると説かれます。
すなわち、人間の心が荒んで自己中心的になっていくと、仏教のもつ人間に対する規範性や社会のバランスを保とうとするはたらきが機能不全に陥ってしまい、大自然からとんでもないしっぺ返しを受けるとされます。そうした自然界からの警告を謙虚に受けとめなければ、さらなる災難として、戦争が起こるであろうとお釈迦様は予言されているのです。
大自然の脅威の前には、人間は無力さを感じざるを得ませんが、戦争というのは人間が起こす人災ですので防ぐことができるはずです。
日蓮聖人はこうした問題をきちんと受け止めて、けっして戦争を起こすことがないように、政治家に物申した、それが立正安国論なのです。
当然、政治家はすぐにその提言に従うはずはありません。しかし日蓮聖人はそれも覚悟の上で、言うべきことは言わなければならないとして、行動を起こされたのです。
日蓮聖人は言葉をとても大事にされた方です。想いは言葉にしなければ伝わりません。言葉を使わなくても、心から心へ真理が伝わる(以心伝心)という考え方もありますが、どうしてもそれでは納得しきれない部分がありますね。
日蓮聖人は、経典にはお釈迦様の魂がこもった言葉が伝えられているとして、経典を大切に受けとめ、なかでも法華経に説かれる理念を実践的に示すことによって、世の中に真の平和をもたらすことを願われたのです。
こうして日蓮聖人は、法華経に予見された法難や迫害を、文字通りに身体をもって受けとめることにより、多くの困難に直面しても、真の法華経の行者であれば必ず「変化(へんげ)」の人に守られる(法師品)ということを、現実社会の中で証明されたのであります。
 
このように「如説修行」というのは、日蓮聖人自らが実践された「修行」でありますが、実は法華経では、私たちの日常生活そのものが「仏道修行」であることを説いているのです。
仏様は私たちに対して、法華経の教えに随って現実社会を生き抜くことの大切さを説かれています。
法華経の教えに随って生きていこうと決意することは、自分の心棒を一本建てるようなものです。
その心棒に肉付けするためには、様々な経験を積まなければなりません。なかでも大切なのは、一見自分にとってはマイナスの経験のほうが、実は魂の成長にとって必要だということです。
そうした苦難の経験を乗り越えた時にこそ、ああ、仏様の御心とはこういうものだったのか、と気づかせてもらえる。日蓮聖人が何度も法難を克服されたのは、私たちが日常生活におけるすべての経験や、直面する苦難には、意味があることを伝えるためだったのではないでしょうか。
 
さて、冒頭に示しました『如説修行抄』の一節「現世安穏の証文、疑いあるべからざるものなり」に立ち返りますと、「現世安穏」とは、法華経の薬草喩品第五に示される経文であります。
薬草喩品には「三草二木の喩え」が説かれます。法華経にはたびたび譬喩(喩え話・例話)が出てまいりまして、法華七喩といわれますが、その中の一つでもあります。
この「三草二木の喩え」とは次のようなお話です。
大きな雲が空いっぱいに広がり、そこから雨がザーッと降り注ぎました。「三草」とは大・中・小の薬草、「二木」とは大樹・小樹で、様々な植物を人間の能力の違いに喩えたものなのですが、草や木は、それぞれの大きさに応じて水分を吸収して生育しますね。水分がなければ植物は生きていけません。
この喩え話では、大きな雲というのは仏様、お釈迦様の大慈悲の御心を指しています。雲から降る雨というのは、教えが説かれることを意味します。その水分を吸収するというのは、仏様の教えを受け取ることを指しています。
大雲から降る雨は、あくまでも平等に降り注がれるわけです。
こっちは大きな木だから、たくさん雨を降らそうとか、こっちの草は小さいから少しだけというような、そうした差別はありません。あくまでも仏様の教えというのはみんなに平等に説かれているのだけれども、それぞれの能力の違いによって吸収する水分量が異なることを喩えているのです。
 
もう少し踏み込んで言いますと、もともと一つの同じ教えなんだけれども、それぞれの受け取り手側の能力や経験値によって、同じ教えでも受け取り方が違ってくるのです。
大学で教鞭をとっておりますと、同じ教室で同じ講義をしていても、学生一人一人の受け取り方や感想が異なるものです。
おそらく皆様も、そうした経験があるかと存じます。
仏教では沢山の経典が伝えられておりますが、それはなぜかと言えば、教えを聞いた人たちの関心や能力の違いによって、同じ教えでも異なった受けとめ方をするからなのです。
一人一人の能力に差異があるので、仏教の教えはバラバラのように見えるかもしれないけれど、仏様の教えというのはもともと一つの根本の教えから出てきているのです。その教えが法華経であることを喩え話を通して伝えようとしているのが、この「三草二木の喩え」なのです。
 
一見、私たちの現実社会には差別があります。
しかしながら、仏様の御心の中ではすべての存在が平等なのです。
私たちは、顔かたちも違えば、能力も違います。差別の世界の中に生きています。これは悪い意味での差別ではなく、区別がある。それはみんなが違った特性をもっているということです。
仏様の教えは、人間が独りよがりにならずに、一人一人の尊厳性を大切にしなければならないことを説いているのです。
 
ところで、皆さんご存じかと思いますが、金子みすゞさんの「私と小鳥と鈴と」という詩をご紹介します。
  私が両手を広げても、
  お空はちっとも飛べないが、
  飛べる小鳥は私のように、
  地べたを速く走れない。
  私が身体をゆすっても、
  きれいな音はでないけど、
  あの鳴る鈴は私のように、
  沢山な歌は知らないよ。
  鈴と小鳥とそれから私、
  みんなちがって、みんないい。
この詩は、小学校の国語の教科書にも載っているそうです。
それぞれにみんな違いがあるけれども、各自の特性を活かし合っていくことの素晴らしさをうたった詩ですね。
「みんなちがって、みんないい」というのは、全部が無条件でいいというよりも、各自の特性を活かし合うことによって、社会が活性化していくという意味だと思います。
自分のもつ特性を出し惜しみをするのではなく、それぞれの能力が活かしあえるような社会こそが、本当に安定した平和な世の中なのでしょう。
自分よりちょっと優れている人がいると感じると、嫉妬心を懐いてしまうのが人間です。
しかし、それではいけませんね。
相手の長所や欠点はすぐに見分けられますが、自分の特性にはなかなか気がつかないこともあるでしょう。
それぞれがみんな違って、みんな良い部分を持っているはずなのです。
仏様は、そのことに目覚めなさいよ、と教えてくださっているのでしょう。
法華経の「三草二木の喩え」も、こうした視点をもつことによって、私たちの心の中にすっと入ってくるのではないでしょうか。
「鈴と小鳥とそれから私、みんなちがって、みんないい。」
各自の違いを認め合うような度量の深さこそが法華経の精神なのです。
みんなが違う価値観をもって自己主張し合っていては争いが絶えません。お互いの違いを認め合いながら、全体として調和を図るという理念こそが法華経の説く最も大事な思想なのです。
平等というのは、なんでも同じ色に染めることではなく、みんなちがってみんないい、と認め合うことが本当の平等なのです。
それぞれの特性を活かしあいながら全体としての調和を図っていく。
そうした真の平等の考え方をもって、現実社会の中で実践していくことが、法華経から私たちに要請されているのです。
 
さて、法華経の薬草喩品には、「現世安穏」と対になる言葉として「後生善処」という表現が見られます。
現世、すなわち今生きている間が安らかで穏やかであることが「現世安穏」ですね。
そして、後生、すなわち死後に善いところに生まれ変わるということが「後生善処」です。
「現世安穏、後生善処」というフレーズは、日蓮宗では祈願文として取り入れられています。
ただしこの経文は、本来、人間の願望を表現したものではありません。
現世安穏、後生善処は、誰もが望みたいところですが、それは人間の願いではなく、実は仏様の願いとして表明されたものなのです。
法華経の教えというのは、人間の浅はかな願望を満たすことを説いているのではなく、仏様が平等の眼差しをもって、愚かな私たちを導こうとされる上での、大いなる願いが明らかにされているのです。。
人間の能力や個性には差がありますが、「みんなちがって、みんないい」という理念を身につけて、社会の調和を求めながら、特性を活かし合って生きてほしい、という仏様の願いが込められているのであります。
それによってこそ、現世が安穏になり、後生に善いところに生まれることができると説かれているのです。
困難なことに出くわしたり、マイナスな経験をすることもありますが、そこから逃げるのではなく、自分が成長するための試練なんだと受けとめることが出来るかどうか。
自分本位な考え方では、厄介なことは排除しようとするか、逃げようとしてしまいますね。でも人の助けを借りれば、困難なことでも乗り越えられるのではないでしょうか。
そうした時にこそ本当の意味で安らかで穏やかな心境にたどり着けるのではないでしょうか。
現世安穏というのは、自分本位な考え方を捨てて、仏様の教えに随順する生き方に切り替えることによって、初めて得られるものであり、まさにそれこそが「如説修行」ということなのでしょう。
自分本位の願望を叶えるのではなく、仏様の願いを実現するために、自分の役割を果たさせていただくこと。
それを日常生活において自覚的に行っていくことによって、活力や助けが与えられ、自分自身のモチベーションも保たれて、困難なことも乗り越えられるものなのでしょう。試練を乗り越えたところにこそ、本当の幸せがある、そうした意味での「現世安穏」なのであります。
 
以上が今回の住職からの法話でございます。
みんなちがって、みんないい。
私たちがそれぞれの個性を認め合って、助け合って、補い合って生きていく。仏様の願いが実現される社会を目指して、私たち一人一人が自覚的に生きていくことが大事なんですね。
 
こちらは、御題目講あと恒例の粗飯の様子。みなさんのお話にも花が咲きました。
来月の妙恵寺御題目講は、12月19日14時から今年納めの御題目講を奉行いたします。
年内最後の集まりになりますので、皆様のご参加をお待ちしております。
合掌。
裕真。

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