彰義隊は、江戸幕府第15代征夷大将軍 徳川慶喜の警護等を目的として渋沢成一郎(渋沢栄一の従弟)や天野八郎らによって結成された部隊で、江戸市中取締の治安維持を任としていました。鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争の波が、ついに江戸に及ぶと、慶応4年(1868年)5月15日、寛永寺一帯に籠っていた彰義隊は、明治新政府軍の総攻撃により撃破され、隊士266名の犠牲を出して敗北します(上野戦争)。
このたび平成29年(2017)5月15日、都立上野恩賜公園内彰義隊墓所において、日蓮宗東京都北部宗務所主催の「上野彰義隊百五十回忌舞楽梵鐘伝供大法要」が営まれ、徳川宗家18代当主 徳川恒孝氏、上野寛永寺長臈 浦井正明氏はじめ彰義隊隊士御遺族ほか僧俗随喜参列者計250名が集い、慰霊・鎮魂・追悼の志を捧げました。当山住職も参列し、広報事業ならびに当日の模様を収めた集録の編集に協力いたしました。
当日のスナップ写真ならびに以下の報告は、日蓮宗東京都北部宗務所のホームページの記事(http://www.nichiren-shu.net/news/2017/)から転載しました。
記
上野彰義隊百五十回忌墓前法要
日蓮宗東京都北部宗務所が主催する上野彰義隊百五十回忌墓前法要が5月15日、都立上野恩賜公園内彰義隊墓所で営まれ、僧侶檀信徒約250人が参列した。
慶應4年(1868)5月15日、彰義隊と官軍による上野戦争が勃発し、夕刻には勝敗が決しました。上野の山にて戦死した彰義隊隊士266名(正確には不明)の御遺体は縁故者が引き取りを申し出ましたが、南千住円通寺(曹洞宗)佛摩上人の願い出に、ようやく新政府に弔う官許を得て荼毘納骨埋葬が叶いました。
隊士終焉の地であり火葬荼毘の地でもある上野の山に墓所建立の声が上がり、特に隊士であった小川興郷氏は七回忌を機に奔走し、彰義隊隊士遺族が中心となって建立に至りましたが、建設費に莫大な費用を要した為に一度撤去されてしまいます。
この窮状を見かねて新墓所建立に御尽力されたのは、当時の白山・大乗寺住職、後の池上本門寺第66世貫首となられた本雄院日舜上人でした。日舜上人は私財を投じて工事を着工し、明治17年(1884)、新規墓所建立と相成ります。日舜上人や小川家は墓所の将来の維持と供養等の全権を東京府に願い出て、許可を得ました。彰義隊墓所は東京都公認の史跡として今日に至ります。台東区上野を管区とする東京都北部宗務所は、彰義隊墓所にて御遺族を招き、隊士御命日の毎年5月15日に慰霊法要を厳修し、本年で百五十回忌の節目を迎えました。
徳川家有縁寺院である天台宗寛永寺・真言宗護国寺・日蓮宗谷中瑞輪寺・浄土宗増上寺・日蓮宗池上本門寺(50音順)各宗御本山にて、法要開式の午前11時に梵鐘を伝供され、引き続き延命院修徒・下宮弘聖上人が舞楽「陵王」を奉納。その後、日蓮宗宗務総長小林順光猊下を大導師、東京都四管区宗務所長を副導師に迎え、会行事に龍泉寺住職・土田恵敬上人、首座に龍谷寺住職・大坂浩規上人、式衆に日蓮宗宗立谷中学寮生、伶倫に橘雅友会各聖出仕のもと、上野彰義隊百五十回忌舞楽梵鐘伝供大法要が盛大に営まれました。
徳川宗家18代当主徳川恒孝氏より、徳川慶喜公筆の「撰法華経」が北部宗務所長望月兼雄副導師に渡され御宝前に奉納され、再度、徳川家有縁寺院である各宗御本山の梵鐘伝供の映像が流れ、彰義隊隊士之霊位鎮魂の願いを込めて、御宝前に奉納されました。
また、小林順光大導師が奉告文を御奉読、徳川宗家18代当主徳川恒孝氏が追福のお言葉を述べられ、参列の僧侶を代表して大本山池上本門寺貫首菅野日彰猊下が諷誦文を御奉読され、参列された彰義隊隊士御遺族の方々の目には感激の涙が浮かび、参列者・参集者が思いを込めて焼香を手向け、上野彰義隊百五十回忌舞楽梵鐘伝供大法要は無事に円成しました。閉式後、川柳公論社主催による、川柳献句供養と彰義隊に関する川柳句会が同墓所で開かれ、参加者はそれぞれに鎮魂の願いを謳い上げました。