〈郷土史微考〉根岸名代生蕎麦「鉄舟庵」

 山岡鉄舟(やまおか てっしゅう、1836-1888)は、勝海舟(かつ かいしゅう、1823-1899)・高橋泥舟(たかはし でいしゅう、1835-1903)とならび「幕末の三舟」と称される一橋派の幕臣。一刀正伝無刀流(無刀流)の剣術家で、禅・書の達人としても知られます。
 要伝寺本堂には、鉄舟の揮毫によると伝えられる題目七字「南無妙法蓮華経」の大書が掛けられています。

 慶応4年=明治元年(1868)4月の西郷隆盛(1828-1877)と勝海舟の会談によって、江戸開城が実現したことはよく知られていますが、徳川慶喜は、その会談に先立って、山岡鉄舟を駿府(静岡市)の大総督府に差し向け、同年3月、西郷との最初の交渉にあたらせました。かの西郷隆盛をして、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困りもす(命もいらぬ、名誉もいらぬ、官位も金もいらぬという人は、始末に困るものである)」と言わせしめたのが鉄舟だったと言います。
 この交渉にあたり、勝は、捕虜とした薩摩藩士・益満休之介(ますみつ きゅうのすけ、1841-1868)を鉄舟に同行させます。益満は、慶応3年(1867)末に、西郷の密命を帯びて江戸市内を混乱に陥れる破壊工作(江戸薩摩藩邸の焼討事件)に暗躍しますが、その折、旧幕府方に捕縛されて処刑されるところを、勝が引き取っていました。徳川家に全面戦争の大義名分を作らせようとした西郷の策謀を白日の下にさらすための交渉カードとして、益満は連れて行かれたようです。周知の通り、その翌月、西郷隆盛と勝海舟の和議によって江戸開城が実現し、勝海舟らの江戸城籠城・江戸焦土作戦は回避されました。
 鉄舟は、明治21年(1888)、53歳でこの世を去り、台東区谷中の臨済宗全生庵に葬られました。同寺は、徳川幕末・明治維新の際に国事に殉じた志士の菩提を弔うために、鉄舟が明治16年(1883)に創建した寺として知られています。

「西郷勝両雄会見之処」の碑(東京都大田区池上・日蓮宗長栄山大国院本門寺松涛園)

 要伝寺の近傍に、かつて「鉄舟庵」という日本そば屋がありました。江戸の文化文政(1805-1829)の頃の創業と伝えられ、当初の屋号は「武蔵屋」。もともとは寛永寺坂の下にありましたが、言問通り(ことといどおり)の道路拡張にともない、昭和45年(1970)に要伝寺門前の「うぐいす通り商栄会」に移って営業を続けていました。店内には、鉄舟の直筆になる「生そば」の看板が掛けられ、「半生功名寒似石 一生心事淡於秋(半生の功名寒きこと石のごとし 一生の心事淡きこと秋のごとし)」の漢詩が刻まれていたのを記憶しております。鉄舟は、店の辛口の濃い味の汁(つゆ)をたいへん気に入り、店主の宮北外次郎に蕎麦の打ち方を伝授し、「鉄舟庵」の名を贈ったと聞き及んでおります。

 なお、下記の記事も併せてご参照下さい。
     記
 ・旧感應寺先師報恩法要・彰義隊遠忌法要
 ・上野彰義隊第150回忌墓前法要
 ・〈郷土史微考〉高松凌雲と鶯渓医院
 ・大河ドラマ『逆賊の幕臣』放送決定!!~川路聖謨実弟・井上清直、当山開基檀越血脈・井上義斐の登場に期待~
 ・要傳寺檀徒の系譜(その4)~開基檀越井上家と高森玄碩~
 ・幕臣 川路聖謨の特集番組放送
 ・NHK大河ドラマ「青天を衝け」と川路聖謨

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