🆕要傳寺檀徒の系譜(その4)~開基檀越井上家と高森玄碩~

川路聖謨(左)と高森玄碩(右/高森家個人蔵)

 3月15日は、幕臣・川路聖謨(かわじ としあきら、1801-1868/川路一族の間では「としあきら」ではなく「せいぼ」と呼ぶ)の祥月命日「聖謨忌(せいぼき)」にあたります。
 当山現董(現在の住職)の曾祖父にあたる高森玄碩(たかもり げんせき、1865-1941)は、川路聖謨の庶子を名乗り、聖謨辞世の句の自署「徳川家譜代之陪臣頑民斎川路聖謨」の「頑民斎」を継いで、自ら「川路頑石」(『現代仏教家人名辞典』「高森玄碩」の項)と称したことが知られますが、歴史を紐解くと、川路家と高森家は、要伝寺開基檀越の井上家を通じて奇しき縁で結ばれた可能性があることがわかりました。

現代仏教家人名辞典刊行会編『現代仏教家人名辞典』,現代仏教家人名辞典刊行会,1917. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1913792 (参照 2024-11-12)【部分】

 要伝寺を創建した開基檀越の井上家の過去帳には、江戸幕府の普請奉行・勘定奉行等を歴任した井上備前守秀栄(-1847)という人物の名が記録されています。
 天保14年(1843)に勘定奉行となった秀栄は、川路聖謨が奈良奉行に任ぜられた翌弘化4年(1847)に歿し、その後、嘉永5年(1852)に聖謨は勘定奉行に就いています。両者の直接的な交流は詳らかではありませんが、幕吏として何かしらの接点があった可能性は考えられます。

井上秀栄の眠る井上家本家墓所(左)と井上義斐の眠る井上家分家墓所(右)

奈良市猿沢池傍の川路聖謨植桜楓之碑にて(2023年5月20日撮影)

 より密接な接点が想起されるのは、川路聖謨実弟の井上清直(1809-1867)と井上秀栄家の分家にあたる井上義斐(よしあや、1816-1881)との関係です。井上清直が外国奉行より勘定奉行となった翌慶応元年(1865)11月、要伝寺の井上義斐が勘定奉行に、翌12月には外国奉行に就任しています。欧米列強との交渉という国家の一大事に当たり、当然引き継ぎなども行われたことと推測され、両者の間に濃密な接触があったことは想像に難くありません。
 同じ年の5月7日、玄碩が生まれます。ただし、戸籍法が整う前のことでしたので、実の両親の名は原戸籍では辿れず、また川路家の家系図にもその名前はありません。

日英修好通商条約交渉時(安政5年)に撮影された写真。撮影場所は、英国側の宿舎となった芝の西応寺(東京港区芝)と推定される。後列左から岩瀬忠震・水野忠徳・津田半三郎、前列左から森山栄之助・井上清直・堀利煕・永井尚志(ビクトリア&アルバート博物館蔵)

内藤家・川路家系図(川田貞夫著『川路聖謨』吉川弘文館より転載)_聖謨・清直は内藤家の出自で、聖謨は川路家に、清直は井上家に養子入りした。

郷土史家の鈴木貞夫氏による「川路聖謨・井上清直と牛込周辺」(1999年私家版冊子)には、聖謨・清直兄弟の拝領屋敷の変遷に関する詳述がある。川路聖謨終焉の地は二七通りと三年坂の角(現、東京都千代田区五番町12)にあった⑧の表六番町屋敷である。

 一方、川路聖謨は、文久3年(1863)に外国奉行を辞した後、三度目の中風の発作を起こして半身不随となり、その隠居生活の最中、慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発します。3月13日には勝海舟と西郷隆盛の会談で和議が成立し、4月11日に江戸開城が実現しましたが、戊辰戦争がその後も閏4月の会津戦争、5月の上野戦争、10月の箱館戦争と戦禍を拡げたことからも分かるように、新政府軍と幕府軍の対立には終息が見通せない暗雲が立ちこめていました。

「彰義隊戦死之墓」初建墓碑(護國院寒松院小碑)_都立上野恩賜公園内

 先行きが不透明の中、川路聖謨は、肢体不随の身にて新政府軍に捕らえられれば幕府軍側の戦局が不利になることを危惧し、慶応4年(1868)3月15日、表六番町屋敷の自邸(現、東京都千代田区五番町12)にて割腹を試みます。しかし、片麻痺のため果たせず、最期はピストルで頸部を射って自害しました。

川路聖謨が自決に用いたのと同型のルフォショウ6連リボルバー(実物は徳川美術館蔵)

川路聖謨の継室で、のち新吉郎・又吉郎(聖謨が妾の梅との間に設けた二子)の養母となった高子(佐登)が、夫・聖謨の自死した3月15日から6月7日までの間に綴った『上総日記』の冒頭。この間、高子は落飾し法号「松操」と号し、一時、上総国平沢村に難を逃れ、6月7日、江戸の情勢の安定を見計らい、番町の本邸に帰った。聖謨の嫡孫・川路寛堂(太郎)が番町の屋敷を引き払うと、高子は要伝寺のある根岸の里に一時閑居したこともある(川路高子「ね覚のすさび」『川路聖謨文書』8巻509頁、日本史籍協会叢書、昭和9年)。

 川路聖謨が自害した時、玄碩は4才でした。時期や理由は未詳ですが、玄碩は、現在の山梨県笛吹市の高森家の養子として迎えらます。その後、玄碩は、15才の時、日蓮宗総本山身延山久遠寺住職の吉川日鑑(きっかわ にちかん/-1886)に師事しています。その昔、武士が自害した際には、供養のため一族から僧侶を出さなければならないという風習があったと言われ、聖謨が日蓮宗の大正寺(だいしょうじ/現、東京都台東区池之端)に葬られたこととも関連するのでしょうか、玄碩は日蓮宗の仏門に身を投じました。
 そもそも、家督の継承のために養子をとったはずなのに、高森家が、玄碩の出家という選択肢を選んだこと自体に、ただならぬ事情がある気がします。明治元年(1869)に高森家に嫡子が、明治23年(1890)に嫡孫が生まれたこともあってか、明治32年(1899)8月、玄碩は弟分家として籍を外れ、現在の千葉県市川市に移籍します。翌33年(1900)7月、高森玄碩・高木阿さの長男として生まれたのが、現董の祖父・高森聖一(1900-1982)です。玄碩は長男に「聖一(せいいち)」、のちに生まれる二男に「聖二(せいじ)」と名付けましたが、高森家の所伝では、その理由は「川路聖謨(せいぼ)」の名を襲ったものと言い伝えられています(因みに、戸籍によると、玄碩には、長女「ヒデ」、二女「操(みさお)」、三女「佐登司(さとし)」、四女「たか」、長男「聖一」、二男「聖二」、五女「加野(かの)」の七子がおり、このうち「操」の名は聖謨の妻さと(佐登)の落飾後の法名「松操」に、「佐登司」の名は「さと(佐登)」に、「たか」の名はさとの別名「高子」に、それぞれ由来すると言われています)。この間、玄碩は、明治35年(1902)に埼玉神戸の妙昌寺36世、大正2年(1913)に栃木佐野の本山妙顕寺40世に任ぜられています。

 ここから、高森家と要伝寺を結ぶ奇しき巡り合わせが起こります。玄碩より2代前となる妙顕寺38世高橋日禎徒弟の高橋錬如という僧が、大正6年(1917)、麻布永坂町大長寺(現、東京都府中市若松町)より要伝寺35世に赴任しているのです。
 翌大正7年(1918)、玄碩長男の聖一は、現在の東京都台東区谷中の瑞輪寺37世市川日調の弟子となり仏門に身を投じますが、瑞輪寺からほど近い場所にあったのが要伝寺でしたので、佐野妙顕寺のふたりの歴世の徒弟同士ということもあり、高橋錬如と高森聖一のふたりの間には何かしらの接触があったはずです。
 昭和4年(1929)に玄碩は埼玉神戸より要伝寺のある現在の台東区根岸に転籍していますが、その理由としては、同年に要伝寺を退いた高橋錬如が、葛飾区堀切妙源寺の34世となったことと関係があると思われます。昭和9年(1935)、錬如が妙源寺34世を退き瑞輪寺41世となると、入れ替わるように玄碩が妙源寺35世に住職します。
 この頃を前後して、錬如から高森家に対して「要伝寺」の縁談があったのでしょう。錬如が要伝寺住職であった時、開基檀越の末孫から、聖謨や清直と関係をもつ先祖が要伝寺の井上家にいたことを聞かされていた可能性が考えられるのです。奇縁を感じた錬如が、玄碩長男の聖一を要伝寺の住職に推したとしても不思議ではありません。
 昭和14年(1939)、聖一は要伝寺の38世の法燈を継承し、川路家と縁のあった開基檀越・井上家の末裔に迎え入れられました。その2年後の昭和16年(1941)7月26日、高森玄碩は、要伝寺のある台東区根岸にて歿しています。
 なお、川路聖謨・井上清直・井上秀栄・井上義斐・高森玄碩・高森聖一の事績を対照した年譜は、コチラから、要伝寺の歴代譜はコチラから、それぞれダウンロードいただけます。 (文責:高森大乗)

 ちなみに、当山サイトに掲載した関連記事を下記に列挙いたします。併せてご覧下さい。
 ・第66作大河ドラマ「逆賊の幕臣」放送決定!!
 ・幕臣 川路聖謨の特集番組放送
 ・旧感應寺先師報恩法要・彰義隊遠忌法要
 ・上野彰義隊第150遠忌集録発刊
 ・上野彰義隊第150回忌墓前法要
 ・NHK大河ドラマ「青天を衝け」と川路聖謨
 ・要傳寺檀徒の系譜(その3)~要傳寺過去帳にみる寺檀の歴史~
 ・寺報『法住』40号(平成29年1月号)発行

川路聖謨が主人公のテレビドラマ『海鳴り-安政元年。下田の盟(ちか)い-』(1984年/出演:小林桂樹・桜田淳子・篠田三郎・有馬昌彦・レオ=メンゲッティほか)

一覧へ