池波正太郎の時代小説『鬼平犯科帳』にも登場する、上野山下(やました)仏店(ほとけだな)の「大和屋」。
当山檀徒の先祖で、江戸時代の元禄期(1688~1704)から幕末までの間に上野山下町の地で鰻の蒲焼き所を商っていた「大和屋」の実態について、『雑誌うえの』第719号(上野のれん会、平成31年3月発行)に「うなぎの名店・大和屋」(上野寛永寺長臈 浦井正明氏稿)と題する記事が紹介されました。本稿の発表にあたっては、当家の現当主の許可をいただき、当山から筆者に情報を提供しました。
要伝寺に現存する当家墓地の墓標には、延享2年(1745)に埋葬された人物の法号(ただし一文字だけの略記)を初見としますが、寺の過去帳には対応する記録がなく、墓の竿石銘から谷中安立寺14世・中山法華経寺96世・京都本圀寺37世・京都本法寺43世を歴任した本妙院日要(~1837)によって供養されたであろうことが推察されます。
要伝寺の過去帳(年別過去帳)で確認が取れるのは、15世玄寿院日近(~1800)代の明和5年(1768)年以降のことになり、記録では、当主は代々「大和屋利右衛門」を名乗っていたことが読み取れます。
大和屋の存在は、江戸のミシュランガイドと言われる『江戸買物独案内(えどかいものひとりあんない)』などの文献史料では知られていましたが、江戸食文化研究の分野でも詳細がわからず、当山の記録が、新たな歴史の1ページに書き加えられることになりました。上方の鰻文化が江戸に伝わった最初期の記録としても、貴重なものとなります。
ちなみに、『江戸名所図会』巻6「上野山下」の場面にも、啓運寺の近くに「うなぎや」の文字が見えます。これが大和屋を指し示すか否かは定かではありませんが、浦井氏談では、仏店(ほとけだな)の地名がこのあたりに該当するそうですので、興味深い史料と言えるでしょう。
(文責 高森大乗)
※ 尚、大和屋については、岡田村雄編・林若吉校訂『紫草』(集古会、1916年)、西原柳雨著『川柳江戸名物』(春陽堂、1926年)の記事も併せてご参照ください。