千葉県から届いた梨

先日、私のYouTubeを昔から応援してくださっている方が、梨をお供えとして送ってくださいました。
そのご厚意に感謝し、早速、御宝前にお供えさせていただきました。

【梨】私も家族もとても大好きで、目がない果物なんです。
とても清らかでみずみずしい果物ですが、そんな梨も日本人の良いところであり、また時に少し過敏すぎるところでもあるのですが
「梨=無し(な・し)」と読めることから、贈り物には縁起が悪いと避けられることがあるという話を、誰が言ったか以前どこかで耳にした事を思い出しました。

車のナンバーで「4(死)」や「9(苦)」を避けるように、言葉の響きや意味に対して日本人はとても繊細な感性を持ち、相手の心をおもんばかって行動してきました。

けれど仏教では、「死(し)」や「苦(く)」は、決して縁起の悪いものではありません。
むしろ、誰にも平等に訪れるものとして、それらを見つめることで、私たちは心の安らぎや、生きる意味を見出していきます。

死を知るからこそ命を大切にし、
苦を知るからこそ他者への思いやりが生まれる。
仏道修行とは、まさにこの「苦悩」そのものを学びの種としていく道です。

そんな中で、ふと心に浮かんだ言葉があります。
それが「阿闍梨(あじゃり)」という言葉です。

聞いたことが無い言葉かも知れませんが「阿闍梨」とは、師を亡くした弟子たちに代わって、仏法をまっすぐに伝える存在。
模範となる修行者として、篤く敬われる存在です。
その「阿闍梨」という言葉の中に、“梨”の字があるのです。

私はこのご縁に、何かしらの深い意味を感じずにはいられませんでした。

梨の果実は、芯がまっすぐ通り、余分なものがなく、リンゴと似ているもののどこか透明感のある存在です。
それはまるで、教えをまっすぐに伝える師の姿のようにも映ります。

だからこそ私は、「梨=無し」として不吉に感じるよりも、
こんなふうに受け取りたいのです。

「悩みが“無し”になりますように」
「苦しみが“無し”になりますように」
「迷いが“無し”に、心が澄みますように」

そんな願いを込めた、祈りの果実としての「梨」。

たとえば、新築祝いに火を連想させるストーブやライターを贈ってはいけない、
葬儀の香典に新札を使ってはいけない。
こうした風習には、日本人の「思いやり」の精神が込められています。

しかし、もし相手が「これが前から欲しかった」と願っていたモノなら、
その気持ちを受け止めて贈ることもまた、まごころではないでしょうか。

つまり、大切なのは形式よりも心、常識よりも慈しみ。

阿闍梨のように教えをまっすぐに伝える「梨」。
「苦しみが無しになりますように」という祈りを宿した清らかな贈り物。

“無しではなく、有りがたい梨”

感謝合掌

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