どうして「素敵」という言葉には、敵うの「敵」が使われているのだろう。ずっと不思議に思っていた。
母のもとに、一人の女性が赤い下着を贈ってくれたことがある。
「赤は血流が良くなるんです。体が不調のときは、赤い下着がいいんですよ。私、自分の子どもたちにも健康でいてほしいから贈っているんです。」
そんな優しいメッセージと共に。
その姿が、胸に残った。
他人に我が子と同じ思いで贈り物ができる――そんな布施行を、今の私にはまだできそうにない。
――なんて素敵な人なんだろう。
やがて知った。「素敵」という言葉は、「素晴らしすぎて敵わない」という意味から生まれたことを。
ああ、まさにその通りだ。あの人の優しさにも、温かさにも、とても敵わない。
けれど、どんなに素敵な人でも、生老病死の前では平等だ。
昨日、その方のご主人が亡くなられた。
最後まで看病を続け、息子さんと一緒にご祈祷に通い、涙と祈りを惜しみなく捧げ続けた姿を、私は知っている。
素敵に生きたからといって、生老病死を避けられるわけではない。
でも、素敵に生きた人の周りには、必ず「素敵な記憶」と「素敵な祈り」が残る。
流された涙も、祈りの声も、深い慈しみも――
きっと、ご主人はすべてを受け取って旅立たれたに違いない。
だから今は悲しみの中にあっても、どうか覚えていてほしい。
「素敵」という言葉の力は、その人の生きた証を、誰かの心に深く刻み、消えない灯にすることだから。
どの家庭の旦那さんも、奥さんの心の深さや偉大さには敵わない……これは全国共通の真理だろう。たぶん、ご主人も霊山でうなずいているはずだ。
そして思った。
素敵に生きるというのは、きっと自分のためだけに生きることではないのだろう。
誰かのために心を動かし、誰かのために時間を使い、誰かのために祈ること。
そして、それが家族だけではなく、縁ある人すべてに向けられるとしたら――それは本当に「素敵」なことだ。
そのとき、その場その場で、飾らない“素”の自分で人や出来事に向き合えたなら。
そんな生き方こそが、きっと「素適」――“素の自分が適う”生き方なのかもしれない。
あの人が見せてくれた背中を思い浮かべながら、私もまた、そんなふうに生きていきたいと、今日、心から思った。


