「迷惑」について考えてみました。

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【迷惑 めいわく】(日本国語大辞典より)

①どうしてよいかわからないで途方にくれること。とまどうこと。

②ある行為によって、不利益、負担、または不快さなどを感ずること。また、そのさま。

この頃、「・・・に迷惑をかけたくないから仏壇を処分したい」とか、「・・・に迷惑をかけるから葬儀はしないように伝えている」とか、「・・・の迷惑になるから墓じまいをする」とか、やたらと仏事に関することについて「迷惑」という言葉を盾にする人が多くなりました

私は確かに「人様に迷惑をかけないようにしましょう」という道徳レベルのことは当然のこととして受け止めています。しかし、こうした際の「迷惑」とはいったい何を指して「迷惑」と主張されているのでしょうか?多分、こういう時の「迷惑」とは②の意味で使用されていると思います。

そもそも、私達が人間としてこの世に生を受けて生きるということは、ある意味、誰かにご迷惑をかけなければならず、誰一人として迷惑をかけずに生きることは出来ません。だから、迷惑はお互い様でもあります。それでは、仏教では「迷惑」はどう説かれているかと言えば、

【迷惑 めいわく】(岩波仏教辞典より)

単に〈迷〉ともいう。〈悟〉の対語で、真実の智慧がなく、道理に反したことに妄執することをいう。中国・日本では、〈迷〉は事理をあやまり、〈惑〉は事理に明らかでないことと解釈されることもある。

※法華経にも、方便品第二、譬喩品第三、信解品第四に説かれています。

およそ、仏事について「迷惑」を盾に主張される方自身が、実は「迷惑」しているということに気が付いていないのです。「迷惑」を主張している人自身が、実は心のどこかで仏事を「迷惑」だと思っているのではないでしょうか?

先祖代々お守りしてきた仏壇やお墓を、マスコミやネットの情報などによって短絡的に処分する行為はとても賛成出来ることではありません。そして、葬儀を蔑ろにしたり、疎かにする行為も、実は亡くなった人自身、そしてその遺族を含めた親族の生き様の顕れでもあります。

仏壇は本尊や位牌をお祀りする家の中心であり、日蓮宗の葬儀は霊山往詣の大事な儀式であり、お墓は先祖代々、近親者のお骨をお納めする心の拠り所です。もし、仏壇もお墓もなくなり、葬儀もしなくなったら、それはまさに「無宗教」という名の外道に他ならないということになります。

もし、「・・・に迷惑になるから×××します」という方がいらっしゃいましたら、「迷惑」の中身をもう一度確認してみましょう。そして「迷惑」の対象になっている存在、・・・が子供や孫である場合は、その人にもちゃんと確認してみましょう。もしかすると、「迷惑」なんかしていないかもしれません。

もし、それでも「迷惑」だ、と主張されるのであれば、是非、本覚寺住職にご相談下さい。「迷惑」にならない方法を一緒に模索していきましょう!

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