中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し。

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69年前の8月6日、広島に“リトル・ボーイ”がB29爆撃機から落とされ、9日には長崎に“ファット・マン”というプルトニウム原子爆弾が投下されました。
世界で60番目の国土面積、アメリカや中国の約1/25程度のこの小さな島国は焦土と化しました。
 
明治維新後、積極的に富国強兵策を推進してきた日本は、1874年の台湾出兵を機に、北からの脅威への対抗策や欧米列強諸国により蹂躙されるアジア情勢の安定など、その都度大義を掲げては終戦を迎えるまでの71年の間に、アジア近隣諸国などに派兵を繰り返して来ました。
そして、この大戦による戦禍を教訓とし、憲法第9条で一切の戦争の放棄を掲げます。敗戦国、被爆国…国の内にも外にも償い切れぬ負の遺産を抱えましたが、それでも極東の小さな島国は世界に例を見ない奇跡の復興(Japanese miracle)を成し遂げたのです。
 
しかし、その一方では1950年に朝鮮戦争が発生すると、国連軍に間接的な援助を行い、「専守防衛」を謳う自衛隊の前身である警察予備隊が編成されました。以降、アメリカ軍や多国籍軍などに対し、軍事基地の提供や軍事費の支援など、様々な便宜を供与して来ました。また、アフガンやイラクへの戦時の海外派兵等々、直接的な戦闘にこそ加担はしませんでしたが、アメリカに追随する格好で自衛隊の派兵が続きました。
 
今年、目まぐるしい世界情勢の変化に伴い、「戦後レジームからの脱却」の名の下に、戦後安全保障政策の転換機を迎えました。7月1日夕刻、安倍内閣が「集団的自衛権」の行使容認について、閣議決定しました。戦後69年、人ひとりの一生にも満たない僅かな期間に、平和憲法のあり方が問われる事態に陥っています。
 
「戦争を起こしてはならない。」「武器を持ってはならない。」「人を殺傷してはならない。」
世界の平和を祈り、人々の幸せを願いながら、我々が生涯を通して訴え続けなければならないことです。湾岸戦争時の空爆を、「綺麗だった。」とエキサイトしていた若いアメリカ兵。シミレーションの延長のように、その閃光の下に「人命」があるとは考えていない様子で、あどけなく言い放つ姿に違和感を覚えました。
 
しかし現実には、世界中で40以上の武力紛争が起こっており、その戦禍に巻き込まれて生活している人々は23億人を超えると言われています。これは世界人口の1/3に相当する数だそうです。(2013年12月末現在)
そんな情勢が続いていても、時代が移ろい、世代が変わり、そこで戦争を知らず、ただ平和を願い、平和憲法に護られて暮らす人々は、果たして海の向こうの戦禍を気に掛け、その苦しみを少しでも分かち合おうとするでしょうか。何か具体的な行動に移るでしょうか。
 
中庸の徳たるや、其れ至れるかな。民鮮なきこと久し。
 
これは孔子の言葉で、「最高の徳とは、中庸であるのだけれど、民にその行いが表れなくなって久しい。」という意味です。この儒教の教えを、“バランスの取れた・ニュートラルな状態=無関心でいる”と勘違いしている人もおられるようですが、意味合いは全く違います。
僧侶としての自分の立ち位置を明確にして、たとえ時代にそぐわない側面があるにしても、法華経の御教えを声にして行動していくことは大切なことだと思っています。その上で、「両方をよくよく理解し」、「一方に偏ることなく」、「ちょうど良いところ」を探し当てることが出来れば、進むべき道が自ずと明らかになって来るのではないでしょうか。大変に難しいことです。でも、人間ならばそれが出来るはずです。
少なくとも「見解の相違です。」で一蹴しては、不信感が募りさえすれ、そこからは何も生まれないのです。

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