なぜ日蓮聖人は他宗批判をされたのですか?

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よく日蓮聖人というと、他宗批判をされた過激な僧侶と敬遠されることがあります。
しかし、果たしてそれが日蓮聖人の正しい人物像でしょうか。
残されたお手紙や御遺文をよく見てみると、他宗の祖師とは違う姿が浮かび上がってきます。

時には耳が痛くなるほどのお言葉で訴えられた日蓮聖人。
ところがその一文一句は、日蓮聖人の私見ではなく、
すべて仏さまであるお釈迦様のお言葉であるということが分かります。
日蓮聖人はあくまでも、お釈迦様のお言葉(経文)を、そのまま伝えられたに過ぎないのです。
 
日蓮聖人が何よりも大事にされたのが、お釈迦様の教え。
それを良く表しているのが涅槃経「四依品」に説く「依法不依人」です。
法に依って人に依らざれ!すなわち、仏さまであるお釈迦様の言葉に依るべきで、
人の言葉に誑かされたらいけないという意味です。
どんなに尊い人や高僧であっても、仏さまには遠く及びません。
仏さまか人の言葉、どちらが信ずるに値するかといえば、言うまでもなく仏さまであります。
これこそが日蓮聖人の価値判断であり、全てと言っても過言ではありません。

 
ところが他宗の祖師はそうではありません。仏さまの教えと反する「依人不依法」ではないでしょうか。
人に依って法に依らざれ!と捉えられても致し方がないように思えます。
たとえば浄土真宗の祖師である親鸞上人は『歎異抄』の中で
「たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」
と述べられており、人師に依っていることが分かります。
だからこそ親鸞上人の遺文には、仏さまの真実最高のお経である法華経のホの字も出てこないのでしょう。
私達の才覚でお経を選ぶことよりも、仏さまの教えにしたがって選択することこそが大事です。
「損か得か人のものさし 嘘か誠か仏のものさし」
と言いますように、人の目、人の考えというのは
どうしても主体が自分になってしまい損得勘定で動いてしまいます。

 
最後に、日蓮聖人は過激であると指摘する人もおられますが、
諸宗批判の書と捉えられる『立正安国論』でも「信仰の寸心を改めて」とあるように、
改めなさいと主張されただけであります。
それに比べ、浄土宗の祖師である法然上人の著書『選択本願念仏集』では
「捨閉閣抛」と主張され、捨てよ!閉じよ!閣おけ!抛て!と主張され、
どちらが過激であるかは火を見るよりも明らかであります。

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