開山 日勇聖人~護国寺を開かれた日勇聖人はすごい人~

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 時は今から遡ること、三百六十余年前、江戸時代の正保年間のことです。一人の僧侶が内裏(御所)で後水尾天皇と皇后の東福門院さま(徳川秀忠の娘、和子)を相手に法華経を講じておりました。その僧侶こそ、山科檀林の開祖、法性院日勇上人であります。日勇上人から発せられる一言一句のお釈迦様の金言に、大変感動された東福門院さまは、自らお縫いになられた菊の御紋・金紋袈裟を寄進なされます。この袈裟は日蓮宗初の金紋袈裟と言われており、以後、山科檀林の歴代化主(住職)は着衣が許される事となります。
 日勇上人は慶長九年(1604)に公家で参議の西洞院時直を父としてお生まれになられました。幼名を梅松麿といい、幼少の頃から聡明であったと伝わっています。そこで父の時直は、梅松麿が十三、四才の頃、身延山久遠寺に参り、かつてから親交があった身延山第二十四世・顕是院日要上人に梅松麿預けました。十五才になると梅松麿は出家し、天慧と名前を改め、後に日勇と号しました。その後も身延山での修行に明け暮れましたが、寛永のはじめ、二十才前後の時懇請されて、京都の本山 妙傳寺の十四世として入山されます。
 日勇上人は日頃から、四海帰妙(皆が法華経を信仰し、仏の国を作ること)の祖願を果たす為に京都に檀林(僧侶の学校)を興したいと思っておりました。ある日、現在の山科に元真言宗の護国院という廃寺跡があると聞き、わざわざ出向いて土地を見たところ、地相・環境とも申し分なかったので、ここに一寺を造営することになりました。
 日勇聖人に深い帰依を寄せていた公家で参議、四条隆術の妻、妙慧院殿は、日勇上人の志を助けようと浄財をされ、自ら開基檀那として寛永二十年(1643)三月、了光山護国寺を開創されました。先述の東福門院さまも大講堂と方丈を寄進され、更に紀州徳川家の二代藩主である徳川光貞と、その妻、天真院殿は総門と学寮を建て、ここに日勇上人は大願を満たし、護国寺に山科檀林を開闢されます。
 日勇上人のもとには多くの学僧が集まり、教学が大いに興隆します。やがてこの法脈を勇師法縁と呼ぶようになり、ここから通師法縁(堀之内法縁、千駄ヶ谷法縁、一ノ瀬法縁、雑司ヶ谷法縁)、潮師法縁といった法脈を生み出されました。近世日蓮教学の礎を築いた優陀那日輝和尚もここで学んでおられます。
 慶安元年(1648)、日勇上人は、弟子の寂遠院日通上人に化主(住職)を譲り、慶安三年(1650)十二月二十三日、護国寺(山科檀林)にて遷化されました。世寿四十七歳。廟は護国寺に建立され、今も香煙絶えることがありません。

 

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