こんにちは、副住職です。
先日4月17日に奉行いたしました、当山御題目講の際の住職の法話をまとめましたので、ご覧ください。
今月の聖語は、『種種御振舞御書』の「方人(かとうど)よりも強敵(ごうてき)が人をばよくなしけるなり」という一節です。
毎月お参りなさっている方は、お釈迦様に敵対した提婆達多(だいばだった)の話かな、と思っていただければよろしいかと存じます。
『種種御振舞御書』には、日蓮聖人が様々な法難や迫害をどのように受けとめられたかを、とても具体的に、かつ名調子で語られています。
提婆達多という方は、お釈迦様(以下、釈尊と呼称します)の従兄弟だといわれます。
釈尊とは幼少期から、何かにつけて比較されたりしたのでしょう。どちらも武芸に秀でて、ライバルのような関係だったと考えられます。しかしながら提婆達多は嫉妬心が強かったために、釈尊に敵対したという話が有名であります。
なかでも、殺父、殺母、殺阿羅漢、出仏身血、破和合僧という「五逆罪」を提婆達多が犯したと伝えられます。
「五逆罪」とは、父を殺すこと、母を殺すこと、修行して一定の悟りを得た僧を殺すこと、仏様にケガをさせること、僧侶の教団を分裂させることを指します。
このうち後半の三つを提婆達多が犯したとされ、そのため提婆達多は生きながら地獄に堕ちたと、多くの経典に記されております。
五逆罪のうちの、はじめの父殺しと母殺しは、以前にお話ししました阿闍世(あじゃせ)の犯した罪が典型とされます。
釈尊の当時、大きな国としてコーサラ国とマガダ国がありましたが、マガダ国の王子であったのが阿闍世であります。
阿闍世太子の父がビンビサーラ王で、釈尊に帰依して多大な布施を行い、教団を保護していました。
そのことを妬ましく思った提婆達多は阿闍世をそそのかして、出生の秘密などを暴露し、父のビンビサーラ王を殺させてしまったのです。
さらに母の韋提希(いだいけ)にも手をかけようとしましたが、それは側近に諫められて未遂に終わります。
こうして父親殺しと母親殺し未遂という、二つの逆罪を阿闍世は犯しましたが、その黒幕が提婆達多であったわけです。
ですから提婆達多は、阿闍世をそそのかして間接的に殺父・殺母の逆罪を犯し、他の三逆罪とあわせて「五逆罪」を犯したとされるのです。
このように提婆達多は、釈尊に敵対した悪人の典型として、仏教ではきわめてマイナスな存在とみなされ、生きながら地獄に堕ちたんだ!と言われているんですね。
これに対して、ご承知の通り、法華経には第12番目の章に提婆達多品がございます。
皆さんとよくお読みするのは後半部分で、8歳の龍女の成仏の話です。これが七面大明神の本地に当たるということは、いつも9月にお話ししていますね。
提婆達多品の前半部分には、提婆達多という存在が釈尊にとってどういう意味をもつのかということが、より深い視座から明らかにされています。
すなわち、提婆達多は地獄に堕ちたとされているけれども、実は提婆達多もやがて仏になるのだと説かれます。
これを短絡的に捉えれば、そんな悪事を犯した人がどうして仏になれるんだ!という疑問が生じます。
我々の常識では考えられないことですけれども、釈尊の視野の広さ、懐の深さといいましょうか、仏の世界から見れば、提婆達多にも大切な役割があると捉えられるのです。
では、法華経の提婆達多品において、提婆達多はどのような存在とされているか、というお話です。
法華経は、過去世・現在世・未来世の三世を見通す教えが説かれます。
釈尊は、この三世の時間の流れを見通すことのできる眼を体得されたというのです。
私たち凡人は、目先のことしか見えないですが、釈尊は、過去のことも未来のことも瞬時に見通すことができて、他の空間のことも見渡すことができるのです。
すなわち時間と空間を超える世界を見通す眼を体得された。仏陀が真理を覚られたというのは、そうした智慧の眼を備えたということなのです。
釈尊の眼には、提婆達多の過去世・現在世・未来世が見えているのです。
過去世において、提婆達多は、阿私という名前の仙人であったといわれます。
実は、釈尊も過去世において、たくさんの修行をなさいました。自分の命を投げ出すような修行も、菩薩行として何度もなさった経験があるのです。
釈尊が過去世のある時代に、仏陀の体得された真理の中で一番深い教えへと導いてくれる人はいないか、と探していたとき、この阿私仙人が「私は法華経という教えを保っていますが、私でよければあなたにお授けしましょう」と言ってくれたのです。
しかし、その教えを受けるためには、千載給仕(せんざいきゅうじ)といって、師匠の阿私仙人のために自分の時間も体もすべてを捧げて布施する覚悟がなければ、この法華経を体得することはできないとされます。
たとえば、木の実を採り、水を汲み、薪を拾って食事の用意をし、木の下で阿私仙人が寝るときには自らがベッド代わりになったといいます。
こうした給仕を長期間にわたって実践したことによって、ようやく法華経の教えを体得することができたというのです。
徹底した奉仕活動を通じて、阿私仙人から教示を得たのが法華経だったというわけです。
この阿私仙人という方が、実は提婆達多の過去世の姿であり、阿私仙人のおかげで、自分は法華経を体得して仏に成る道を全うすることができたのであり、提婆達多こそが「善知識」であると、釈尊は法華経の提婆達多品で告白されるのです。
善知識とは、善き導き手のことです。
知識とは、今の私たちが使う意味とは違いまして、ここで知識というのは指導者という意味です。
善き指導者が善知識で、その反対が悪知識です。
先ほども申しましたように、現在世の提婆達多は、阿闍世をそそのかして父王を殺させました、それは悪い指導者の典型ですね。
それを、ある意味で逆手にとって、「提婆達多こそ善知識である」と断言されたのです。
これは、法華経以前の経典には説かれなかったことなのです。
法華経では、この提婆達多こそ、実は過去世から、釈尊が真の悟りを得るための真髄を叩き込んでくれた存在であったということが明確化されたわけです。
提婆達多は悪知識の典型だと思われているけれど、実は、釈尊にとっては善知識なのだという、それまでの常識を覆すようなことが法華経で初めて説かれるのです。
さらに提婆達多品では、提婆達多には未来世において、天王如来という仏になるであろうという成仏の記別(保証)が授けられるのであります。
いったいどうして、そのような理屈に合わないようなことを法華経は説くのでしょうか。
法華経の教えというのは、過去の一点、現在の一点、未来の一点だけを断片的に見ただけでは理解できません。
過去から現在、そして未来へと、ずーっと、命はつながっているのであり、いわば魂のネットワークが張り巡らされているのです。
法華経では、大いなる時間の流れのうち、一コマの典型的な話が説かれているのです。
長い長い過去世があり、ほんの一瞬のような現在世を経て、また長い未来世へと、永遠の生命の営みを、私たちは旅しているのです。
ずっと過去世のことも、私たちは経験しているはずなのです。
それは現代流にいえば、私たち一人ひとりの遺伝子の中に、生物としての情報も、自分自身の過去世の経験も刻まれているのです。
仏教では阿頼耶識(あらやしき)という潜在意識の中に、遺伝子情報も、過去の自分の行いも記録されているといいます。
法華経の教えには、そうした遺伝子情報や過去世の行いを解読するためのキーワードが隠されていると考えれば、少しわかりやすいかもしれませんね。
ですから、法華経に説かれる提婆達多の話は、ただ過去世の一点だけを取り上げて、あの時は自分にとっては師匠だったから、現在世のことは差しおいて、未来世は仏になるはずだ、というような単純な話ではないわけです。
「釈迦に提婆」という諺(ことわざ)もあるように、釈尊と提婆達多とは、過去世からずーっと現在世に至るまで、切っても切れない関係にあるのです。
法華経に説かれる永遠の命に照らしますと、自己と他者はお互いに立場が入れ替わりながら、不即不離の関係にあるわけです。
釈尊にとって、提婆達多は過去世の師匠であり、そのおかげで法華経の真髄を体得することができたというのは、そのまま現在世においても成り立つことなのです。
現在世において、提婆達多は釈尊に敵対することによって、逆説的に釈尊を支えていたとも考えられるのです。
そのことを典型的に表現した言葉が、まさしく今月の聖語「方人よりも強敵が人をばよくなしけるなり」という一節なのであります。
方人というのは、いつも自分の味方をしてくれる人のことです。
これに対して、強敵は手ごわい相手、自分に対して厳しく接したり、苦言を呈する相手のことです。
自分にとって、好ましい味方だと思っている人よりも、むしろ嫌だなぁと思っている相手の方が、自分をより良く成長させてくれるというのです。
人を良く成すというのは、その人の精神性を高め、魂を成長させるという意味であります。
仲の良い人たち同士でおしゃべりするのは楽しいけれど、自分にとって苦手な人とか、嫌だと感じてしまう相手がいる、というのは誰もが経験しますね。
嫌だなというのは、大概、自分の中にもそうしたマイナス面があるということなのです。
それを嫌な相手に投影して、自分の中にあるマイナスの部分は見ないようにする。
それは、ある人を毛嫌いすることで、自分の心を安定させようとする作用かもしれませんね。
それよりも、自分にとって嫌だなと思う人から、実は教わることが多いということも、皆さんは経験しているのではないでしょうか。
ある程度、年齢を重ねて自分の半生を思い返してみますと、自分に厳しく指導してくれた教師や上司、あるいは何かと強く当たってきた先輩や友人、当時は辛くて恨むような気持ちでいっぱいだったけれども、あの人がいてくれたおかげで、自分は今こうしていられるんだという思いがきっと皆さんの中にもあると思います。
改めて自分自身の中で、反省してそのことに気づける人は、自分自身の魂が成長している証です。
なかなかそういうことに気づくことはできないのが普通です。
嫌だと思ったらそのまま、別れたらそのままで、思い出したくもない、という経験もおそらくあるでしょう。
しかしながら、そういう苦い体験も自分にとっては無駄ではなかったんだというふうに思いたいですよね。
マイナスな体験であったとしても、それは自分自身にしかできなかった貴重な経験なのです。
その相手がいなければ経験できなかったことなのです。
そのように自分自身を客観的に見ながら、魂を中心に物事を考えること。
自分の魂が、過去からずうっーとつながってきて、相手の魂とは、実は前世から出会っているんだというふうに感じること。
そして今、自分がもし相手から辛いことを受けているとすれば、それは自分がかつて相手にやった行為なのかもしれない。
そのように相互の関係の中で、自己と他者の出会いの場があり、お互いの魂を成長させるために出会っているんだ、という考え方。
これが法華経の本質なんですね。
法華経の教えはというのは、表面を読んだだけではわからないのです。
提婆達多品では、提婆達多は釈尊の過去世の師匠であったという一点を強調して、現在世では敵対しているけれど、それはネグっておいて、未来世は仏になれる。どんな悪人にも救いをもたらすところが、法華経の素晴らしさなんだ…。そんな短絡的なことではありませんよ。
法華経のことをよく理解していない人は、表面的な部分だけを取り上げて、法華経はみんな救われると、大風呂敷を広げている。悪人が救われるのなら、人を騙したり悪事を犯した人のほうが救われるというのか?そんな話ではないのです。
釈尊にとって、提婆達多は、欠くことのできない大切な存在だと説かれたのはどういう意味なのか、という問いをもつことが重要です。
仏道修行というのは、日常のあらゆる場面において、精神力を鍛えること、魂の成長のチャンスを見失わないことが大事なのであって、法華経の教えを自ら身をもって実践するというのはそういうことなのであります。
頭の中で整理してみて、なかなか簡単には納得できない部分もあるかもしれません。
しかしながら、マイナスの経験こそが自分にとって魂の成長のチャンスだったのだと、振り返ってみて思えるかどうか。それが最も大事なところですね。
よくスポーツ選手は、ライバル(好敵手)の存在があってこそ、自分の記録が伸びるといわれますね。
水泳の平泳ぎで有名な北島康介選手には、アメリカのハンセン選手とノルウェーのオーウェン選手という2人のライバルがおりました。
実はオーウェン選手は、高地トレーニングが逆効果となり、動脈硬化を起こして心筋梗塞で26歳という若さで亡くなったのです。
それは、北島選手にとって、とても大きな出来事でありました。
次のオリンピックの最大のライバルといわれていたオーウェン選手を失った時の北島選手の姿。
報道陣から、オーウェンが亡くなったから北島は金メダルが取りやすくなったのではないか、という趣旨のインタビューに対して、北島選手の顔は一変しました。
北島選手は、そうじゃないんだと、自分にはあのオーウェン選手というライバルがいたからこそ、ここまで頑張れたんだと、悔しそうに語る北島選手の姿がとても印象的でした。
ライバルがいなくなったから、金メダルが取りやすくなって良かった…。そうじゃないんだということ。
今まで厳しい練習を乗り越えられたのは、互いに切磋琢磨しあっていくライバルがいたからこそなんだ。自分はライバルに支えられていたんだというスポーツマンの典型ですね。
こうしたことは、私たち人間が生きていく様々な場面において、当てはまることが多いのではないでしょうか。
釈尊という方は、法華経では私たちが生きている娑婆世界の教主とされます。
この「娑婆」とは、「サハー」という梵語を音写した言葉で、意味としては「忍土」ということです。すなわち「さまざまな苦しみを忍ばなければならない場所」という意味です。
俗に「苦の娑婆」とも言われますように、苦しみに満ちあふれた世界が娑婆世界なのです。
「四苦八苦」という仏教用語がありますが、それは人間である限り誰もが逃れることができない「苦」があるということ。たとえば「生老病死」の「四苦」は、けっして人間の思い通りにはならないということを、釈尊が真理として覚られたのです。
本来、思い通りにならないことを、自分の思い通りにしようとするから、余計に苦しみを増幅させてしまう。それが四苦八苦の本質であります。
特に法華経において、釈尊が娑婆世界の教主として強調されるのは、釈尊は過去世からの修行の積み重ねによって、娑婆世界のあらゆる存在が体験するであろうすべての苦しみというものを、すでに体験されてこられたということなのです。
すべてを経験済みであるからこそ、それを乗り越えるための智慧を体得されているわけです。
およそ人間が体験するであろうすべての苦しみも悲しみも、釈尊はみんな受けとめられている。
そうした経験がなければ、人を導くことはできませんよね。
苦難にあうことや、辛い思いというのも、自分自身の経験がないと他人事で終わってしまって、その人の心に寄り添うことはできないですね。
釈尊は、過去世からの修行によって、この娑婆世界のあらゆる人たちが経験するであろう苦しみ、悲しみ、悩みというものを全て自分が先取りして受けられた。そして苦難を乗り越える道を体得したんだと、そういう意味で世の中の真理を覚られたというのです。
そうした経験がなければ、教えの主にはなれないわけです。
釈尊が教主であり、久遠の生命をもっていらっしゃるということは、過去世からの修行の積み重ねがあって、私たちが直面する苦難を先取りして下さっているのです。
だからこそ、それを後から経験する私たちに適切なアドバイスができるのであって、そういう意味で娑婆世界の教主は釈尊お一人なのであると、法華経の中で説かれるわけであります。
娑婆世界に生を享けた私たちは、様々な人間関係の中で、忍ばなければならないことが沢山あります。それを自らの試練として、魂の成長の糧として受けとめることができるかどうかが問われているのです。
自分が経験させてもらうことに、何一つ無駄はないんだというふうに、前向きにとらえることができるかどうか。
これが、法華経の教えを体得したか否かの分かれ目なのです。
自分は法華経を毎日読んでいるとか、人よりたくさん仏典を学んでいるとか、多くのお寺にお参りに行ったとか、あるいは、こんな修行をしたとか、それを鼻にかける人がいますけれども、その程度では大したことありませんね。
「能ある鷹は爪を隠す」ではありませんが、信仰は自慢するものではないはずです。その人が体得した信仰の世界や価値観というものは、その人となりや、言動から、にじみ出てくるものがあるはずです。
ですから、自分を良く見せようとしたり、尊大な振る舞いをしているような人は、あまり信用できませんね。
あくまでも穏やかに、そして相手の心に寄り添いながら、自分自身はまだ経験が足りないんだという謙虚な姿勢で、嫌なことも受け止めたり、あるいは受け流していくこと、その一つ一つが全て仏道修行につながっているのです。
本日のまとめとしまして、自分の味方をしてくれる人はもちろん大事な存在ですが、仏道修行においては、むしろ自分が嫌だなと感じる相手や、厳しく当たってくる人こそが、本当の意味で自分自身の魂を成長させてくれるんだという精神を、私たちは持ちたいものです。
娑婆世界の教主である釈尊は、愚かな私たちを導くために、様々な人間との出会いを通して、気づきと目覚めのチャンスを与えてくださっているのです。
日蓮聖人は、法華経に示された釈尊の言葉の通りに実践していく中で、法難や迫害をたくさん受けられましたね。
「平の左衛門こそ提婆達多よ」、「相模守殿(北条時宗)こそ善知識よ」というように、日蓮聖人は自らを逮捕した幕府の役人や、法難の加害者である為政者に対して逆説的な表現をされました。
「法華経の行者」として認められるために、法難という試練を受けなければならなかったのは、そうした理由があったわけですね。
つまり、マイナスの経験を通してこそ、人間は自らの魂を成長させることができるのであり、法華経はそのことを普遍的な真理として説き続けているわけであります。
まさしく、人生に無駄はなし。
長い人生の中には、マイナスの経験もたくさんあることでしょう。しかしながら、命終わるときには、あぁこれで良かったんだと思えるような生き方をしていきたいものです。
信仰をもつきっかけとしては、最初のうちは、自分が助かりたいとか、自分の願望を叶えてほしいという気持ちから入るのが自然かもしれません。
しかしながら、様々な経験を積んでいく中で、自分の願望がある程度叶ったとしても、あるいは叶わなかったとしても、自分が経験したことは、すべてに意味があったのだと、そうした受け止め方ができるようになるのが、本当の信仰ではないでしょうか。
以上が、住職の法話でございました。
自分自身が今まで経験してきたこと、それは全てが自分自身の血となり、肉となり、そして心の糧となっているはずです。
「敵こそ我が師なり」の精神の大切さを再確認して、マイナスなことがあってもそれは自分の魂の成長の一端につながっているんだと思いながら、日々の生活もますます精進して参りたいと思いました。
次回の当山妙恵寺御題目講は、5月18日(木)14時~でございます。
毎月19日ですが、5月は18日に日程変更となっておりますので、皆さま、お間違えなきようお願いいたします。
皆さまのお越しを心よりお待ち申し上げております。
合掌
裕真。