7月19日、妙恵寺施餓鬼会「お盆の今こそ考える心のあり方」

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こんにちは、副住職です。
7月19日、晴天の下、当山お施餓鬼法要が無事に終了いたしました。
大勢の方にご参拝いただき誠にありがとうございました。
 

お施餓鬼では、普段の御題目講とは違いまして、御宝前に五色の旗を立て、ご飯や水の子を供養し、多くのお坊さんと共に願文を唱えて、我々のご先祖様はもとより、有縁無縁の諸精霊にご供養の志を捧げます。
私は、鏧座(きんざ)を任されまして、緊張と戦いながらも、皆様と共に法要を厳修でき、ホッとしております。
 

今回は、法要後に住職からありました「お盆、お施餓鬼の意義について」の法話をまとめましたので、ご覧ください。
 
皆様もよく耳にする「お盆」とは、本来どのような意義があるのでしょうか。
毎年同じようなお話をしていますが、年によって皆様の感じ方も異なると思いますので、改めて説明して参りたいと存じます。
 
ひとくちに「お盆」といいますが、本来は「盂蘭盆」と書きます。
「盂蘭盆」とは、もともとインドの言葉、サンスクリット語で「ウランバナ」という言葉があり、インドから中国に伝わった際に音写され、「ウランバナ」が「盂蘭盆」となりました。
漢字には、意味を表す「表意文字」と、音を表す「表音文字」の両面がありまして、
中国に行きますと、外来語も漢字で表現されていますね。横文字はあまり使われておりません。
日本語では、表音文字として平仮名・片仮名がありますが、中国はあくまでも漢字で通していますので、マクドナルドもケンタッキーも中国に行きますと、すべて漢字で音を表しているわけです。
話を戻しますと、その「ウランバナ」の意味ではなく、音を表したのが「盂蘭盆」ということになります。
ではその「ウランバナ」とは、どのような意味なのでしょうか。
「ウランバナ」とは、お経典の中には「倒懸」という意味で出てまいります。
「倒懸」とは、「さかさ吊り」という意味です。足が上で、頭が下という状態のことです。
つまり「盂蘭盆」という言葉のもともとの意味は、「さかさ吊り」ということになります。
 
ふつうは、さかさ吊りにされたら辛くて耐えられませんね。
これは、身体が逆さまになっているということで、供養を受けられない状態を意味します。身体が逆さまですと、物を食べることができません。
そういうさかさ吊りで供養が受けられない状態であるという物理的な意味が一つ。
そして「心の状態が逆さまになっている」という、精神的な意味もあるはずです。
自分では気づいていないけれども、心が逆さまだ、ということを暗示しているわけです。
 
人間という生き物は、お互いに支え合い、助け合いながら生きていく。
人と人との間に生きていく。それが人間ですね。
人という漢字は人と人とが支え合いながら…と言うまでもなく、人間はお互いに支え合いながら存在が成り立っているのであって、けっして一人では生きていけません。
当たり前のことかもしれませんが、とかく我々は、俺ガ、私ガという、悪い意味での「我」を張ってしまいますね。
「自分は他人とは違うんだ」「自分は、自分は」と、特に若い時には思いがちであります。
本来は「お互いに助け合って、おかげさまで生かされている命」なのに、「自分は一人で生きているんだ」と思い上がったり、命を自分の所有物のように考えてしまう。
そうした心の状態を、実は「逆」なんですよ、ということを言っているわけです。
自分の命は、両親がいなければこの世に存在することができません。
また多くの人々の手をわずらわせ、さまざまな助けをいただかなければ、ここまで成長できないのです。
そういう「おかげさま」の気持ちを忘れてしまっている、それこそが「心が逆さま」の状態であるということ、「倒懸」が喩えている本質的な意味なのであります。
ひとりよがりで、自己中心的になってしまいがちな私たちの心、自分ではその部分になかなか気がつけないのが現実ですね。
 
本日は、この盂蘭盆にあたって、施餓鬼供養を行いました。
先に説明しましたように、盂蘭盆(さかさ吊り)というのは、自己中心的な「餓鬼」の状態を指しているといえます。
仏教では、我々が生きている世界を「六道」といいまして、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道という、迷いの世界に生きているといわれます。
この中で一番苦しみが強いのは、ご存じの通り地獄です。
その次に苦しいのが、餓鬼であります。
餓鬼とは、自己中心的で自分の欲望をコントロールできない状態、欲しいものがあれば何でも手に入れたいという欲望を指しています。子供は自分の欲望がコントロールできず、あれもこれも欲しがるというところから、ガキと呼ばれるのです。
このような餓鬼道に堕ちているということは、自分では気づくことができません。
心が逆さまになっていると指摘されても、俺は俺、私は私だという気持ちに支配されて、そのことに気づかない状態、それが餓鬼なのです。
 
お釈迦様の優れたお弟子の一人に目連尊者という方がおりました。
目連尊者は、神通第一といわれ、お釈迦様のお弟子の中で、神通力にかけてはナンバーワンと認められておりました。
神通力とは、現代流にいえば超能力のようなものです。
我々はふつうの人間として生きている限りは、三次元の世界しか認識することができません。
神通力を体得すると、四次元の世界とも行き来することができるようになるようです。
三次元と四次元の世界は切っても切れない、裏腹の関係にあるのですが、我々凡夫には四次元の世界は認識できません。
しかしながら、目連尊者は修行の成果で、四次元の世界を見渡すことのできる神通力を体得したのでした。
そんな目連尊者にも、青提女(しょうだいにょ)という名前のお母さまがいらしたのですが、そのお母さまが亡くなってしまいました。
目連尊者は、お母さまが亡くなられた後、どのような世界に行かれたのかを神通力によってお母さまを探しました。
仏様の世界から、天上界まで探してみますが、お母さまはおりません。
そこから下がって修羅界、畜生界にも見当たりません。
まさかと思って、餓鬼界を探してみますと、悲しいことに、餓鬼界の亡者と共にお母さまを見つけてしまいました。
何とかしてお母さまを救わなければと思い、手足は針金のように細く、お腹だけが膨れてしまった餓鬼の姿で物乞いをしているお母さまに対して、持っていた食べ物を供養しようと思ったら、途端に火となって燃えてしまい、消そうと思い、水をかけたらそれはたちまち油になってしまいました。
このように供養しようとしても、それができない状態になってしまっていて、自分ではどうしようもないと思った目連尊者は、お釈迦様に相談します。
するとお釈迦様は、「そなたの母はとても優しかったけれど、餓鬼道に堕ちてしまっていたか。母はそなたには優しかったであろうが、生前中に犯した罪の報いかもしれぬ。それは慳貪の失(けんどんのとが)であろう。」とおっしゃいました。
慳貪の失とは、物惜しみの心が強く、他人に施しをしない罪のことです。
先ほども説明しましたように、本来私どもは助け合って生きていかなければなりません。
目連尊者の家庭も裕福であったはずなのですが、おそらくお母さんは他人に何かを施すということをせずに生きてきたのでしょう。
子供を育てるためには、母親というのは鬼になる場合もありますね。食べ物が足りなければ、人の分を盗んででも我が子に食べさせたいというのが親心でありましょう。
このように、目連尊者の母は、子供のためと思うばかりに、罪を犯してしまったのかもしれません。これを、お釈迦様は「慳貪の失」であるとされました。
それではどうしたらお母さまを救えるのかと、目連尊者はお釈迦様に泣いてすがりました。
これに対してお釈迦様は、「餓鬼道の世界をお前さんは見てきたのであろう。そこにはお母さんしかいなかったのかい? 違うだろう。餓鬼道に堕ちてしまっている者たちは皆、生前中に物惜しみの心が強くて、ある程度裕福なのにも関わらず、他者に施しをしないという自分本位な生き方をしてしまった。自分ではそれに気づかないまま、人生を終えてしまったが故に、その報いを受けているのだ。そうした存在を救いたいのであれば、自分の母だけを救おうとしてはダメだ。餓鬼道に堕ちてしまっている者たちに対して、できるだけ多くの施しをすることが必要なのだ。餓鬼道に堕ちた亡者たちをできるだけ多く救いたいとする志を立てて、供養をすれば、その余慶の功徳によって、そなたの母も救われることであろう。」
このようにお釈迦様は、おっしゃったのでした。
ただ、お母さんだけを救おうというのではなく、自分ができる範囲で出来るだけ多くの亡者たちに対する「布施の心」「施しの志」というものを実践しなさいと説かれたのです。
では、具体的にはどうしたらよいのでしょう。
古代インドのお釈迦様ご在世の時代、4月の中頃から3カ月間はインドでは雨期になります。それを夏安居(げあんご)といい、湿気に誘われて出てくる虫たちを殺生しないために、その間、僧侶たちは精舎の中で修行をします。
その夏安居の明ける日が7月15日ということで、その日は修行の反省会等をするのが習わしとなっておりました。
その時に、できるだけ多くのお坊さんを招いて、お食事を供養しなさい。それが、先ほど言ったように、餓鬼道に堕ちた者たちに対する布施に繋がるはずである、とお釈迦様はおっしゃいました。
その教えを受けとめた目連尊者は、7月15日に尊い修行を終えたばかりのお坊さんを集めて、できる限りの布施供養を捧げた功徳によって、餓鬼道に堕ちた亡者たちとともに、目連尊者の母も救いの光を得ることができたと言われます。
こうしたお話が今日まで伝えられているのであります。
 

慳貪の失によって餓鬼道に堕ちてしまうというのは、なかなか自分では気づけないものです。
そもそも自分では気づかないうちに、私たちは罪を犯しているのかもしれません。
自分の母、父、あるいは大事な人が、もしかしたら自分を育てるために知らず知らずのうちに罪を犯してしまったかもしれません。
人間はそれぞれの人生を生きていく上で、様々なことに失敗してしまいがちです。
祖先から大切な命を受け継いでいる私たちが、仏様の教えをきちんと受けとめて、それを実践していく。心を形に表していくことが大切なのです。
その教えの一つが、餓鬼に施す「施餓鬼」という習わしとして今日まで伝えられ、実践されてきているのです。
 
ウランバナというのは、さかさ吊りの状態。
心が逆さまになってしまっている、それこそが餓鬼の状態なのです。しかしながら自分自身ではなかなか気づけません。
自分が死んだ後に、その報いとして苦しみを受けることによって、ようやく気づきのチャンスと立ち直りの道というものが見えてくるのです。
それは、自分だけではどうしようもありませんので、残された人たち、生前中に関わりのあった人たちの手助けによって、お互いに救われる道が開かれていくのであります。
 
以上のようなお話から、「盂蘭盆」「施餓鬼供養」というものが今日までも行われてきていることに意義があるのです。
ただ自分のご先祖様だけを供養するのではなく、多くの人々と共に、有縁無縁の諸精霊に対してできる限りの供養の志を捧げ、今の自分が受けている有り難い恩恵を少しでも布施の心としてお返しするという、そうした実践が大切なのです。
今日、こうして大勢のお坊さんを招いてご供養を営んだように、自己中心的な人たちが多い現代社会においてこそ、「施餓鬼」供養の意義が再認識されなければならないわけであります。
 
以上であります。
私自身も時々、自分本位で心が逆さまになってしまうことも多々あります。
それは、その時には気づかずに後々になって、後悔という形で自分の心に表れてくるものだなと最近感じております。
悔いの残らない人生を送るためにも、他人の気持ちに寄り添い、自分本位な考え方に陥らないように、常に意識して日々を生きていきたいなと感じる今年のお盆でありました。
 
さて、来月の当山御題目講は、8月19日14時~当山本堂に於いて行います。
来月は、私の祖父であり、当山開山の光澄院日幹上人の第17回忌法要も厳修致します。
13回忌の際に発心した私もなんとか僧侶になることができ、立派(?)になった姿を祖父である日幹上人にもご報告出来たら良いなと考えております。
皆様のご参拝、心よりお待ちしております。
合掌。
 
裕真。

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