円真寺の縁起

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

(南河原村)円真寺 村の東にあり。日蓮宗にて安房国小湊誕生寺の末、蓮忠山円経院と号す。開山は詳ならずされど天正十八年北条家没落の時、かの家人斉藤大学助久義といへるもの、此年四月十九日小田原城にて氏直の為に討死せしを、当寺に於て追善せしよし過去帳に載たれば、古き世よりの寺なるべし。其後慶長年中蒲田嘉左衛門といへるもの中興開基して今の寺号とせり。是までは円経院とのみいひしとぞ嘉左衛門が法号を蓮忠と呼で寛永七年二月二日死せり。よりて山号とす。今其子孫村民にあり。其時の住職は自證院日飴とよびて元和三年四月十九日寂す。本尊三寶祖師長一尺五寸なるを安せり。客殿六間半に七間南の方に向ふ。 鐘楼。門の左にあり。天明六年の銘文あり。考證によしなければ略せり。

「新編武蔵風土記稿」より

 

――創立年第
創立年代は不詳。
第25世日久上人の生前に刊行された日蓮宗大観(大正7年刊行)には慶長9甲辰年とある。
しかし第29世が纏めた縁起の時点では創立年代不詳とされている。
第19世太樹院日門聖人が大過去帳の覚書に記すところには、天正年間に『齋藤大学之助久義(温台院殿善法神儀)等北条氏直の為討死せる者の為の追善防営せり』と記されている。
当時は円経院と称していたようであり、慶長年間中に諸堂を建営し、開山に比企谷妙本寺・池上本門寺第14世自證院日詔聖人を招請とある。
また元和3年に建立された開山聖人墓石には「当院開闢日詔聖人廟」とある。
日詔聖人は慶長8年~元和3年に長興・長栄両山に晋山されており、その折りに中興されたものと考えられる。
開山聖人に由縁して円真寺の紋は葵紋を使用している。

――円経院から円真寺へ
円真寺の開闢当時は「円経院」と称していいた。
開基は小田原北条氏の御家門方であり、「六郷殿」と呼ばれていた蒲田所左衛門忠義。
衆臣家譜によると蒲田重武の隠居名とされている。寛永7年に逝去。
蒲田所左衛門(法号蓮忠)の妻・妙蓮が所左衛門と蒲田家一族の供養の為に碑文谷法華寺より僧侶を招き法華経を一千部読誦した。
この法功により寛永10年に碑文谷法華寺より「蓮忠山」「円眞寺」の寺号・山号の下賜をうけた事が大過去帳に記されている。
なお、寛永17年にその砌の宝筺院塔が建立され、現在も境内蒲田家墓地に祀られている。

――旧本寺
大過去帳によると、開山日詔聖人は当山を碑文谷法華寺の末寺とした。
恐らく妙蓮が碑文谷法華寺の信者であった事が由縁であるかと筆者は拝察している。
元禄年間、不受不施禁制の中で碑文谷法華寺が解体され円眞寺を含む末寺の法灯継承に難を極めた際、所縁あり小湊誕生寺末寺となる。
大過去帳には当時の住職が小湊誕生寺住職の法眷であった説等が触れられている。

――宗祖開眼鬼子母神像
第12世日鑑聖人は肥後熊本太守細川越中守源綱利公の帰依を受け、日蓮大聖人御開眼の胎籠鬼子母神像を当山に安置する。
戦災で刹堂と共に焼失、跡地には檀家信徒墓所が建っている。
門前にはその事跡を示す「南無胎籠鬼子母尊神」と書かれた石碑が建っている。

境内
昭和20年の戦災により灰燼に帰すが、享保9年建立の山門・鐘楼堂(現在は納骨堂)は難を逃れる。
昭和40年第27世日照聖人により本堂が再建される。本堂正面には日照聖人染筆の大曼荼羅御本尊、釈迦立像、祖師像、左手には鬼子母神、右手には祖師像と納牌を希望された方のお位牌が祀られている。
昭和59年 第29世日瑞聖人により日蓮聖人700遠忌報恩事業として客殿・庫裏再建。
諸堂として願満堂(不動明王・コンガラ童子・セイタカ童子を祀る)、稲荷社(円経稲荷大明神・妙智力稲荷大明神・白光寺稲荷大明神を祀る)、水神社(水神明王・妙観大龍神を祀る)、客殿内に大黒尊天を祀る。
平成18年に齋藤マサ氏・文夫氏により日蓮聖人銅像が境内に建立される。
平成28年に境内整備、 平成29年に齋藤文夫氏によりさざれ石が奉納される。
斎藤家墓所に齋藤大学之助以降歴史を纏めた石碑有。
境内に西南戦争齋藤常吉義所碑、駐車場に渡邊白容句碑、渡邊茂野句碑。
蒲田家墓所に開基蒲田所左衛門夫妻と蒲田家先祖の供養の宝篋印塔(寛永17年)。

歴代。
聖人號の取り扱いに関しては多論ある。
円真寺では江戸時代より聖人號を使用しているため、そのように記す。

開山 自證院日詔聖人  
元和3年4月19日
小西檀林2世  
池上本門寺・比企谷妙本寺14世
辻常住寺・川崎本瑞寺(元正教寺)・鎌倉常栄寺開山。
松葉谷安国寺・大峰法性寺中興。
縁故寺院多数
小西檀林玄化
飯高檀林日尊(後両山13世)弟子

第2世 顕妙院日饒聖人 
慶安2年2月9日 (69歳)
川崎本瑞寺2世 蒲田氏

第3世 一遠院日広聖人  
元禄4年8月

準歴   雀明院日静聖人     
寛文6年9月5日

第4世  正法院日性聖人 
元禄元年10月25日(86歳)
藤岡市天竜寺6世(寺院大鑑・藤岡市天竜寺のページによると、慈雲院日性とある)

なお、藤岡市天竜寺境内外堂は宗祖日蓮大聖人佐渡流罪の際滞在された場所であるが、
円真寺の檀家家先祖には佐渡まで日蓮大聖人を送った方の末裔がおり、筆者は勝手に縁を感じる次第である。

第5世  円珠院日善聖人 
寛文3年3月3日

第6世 大経院日慈聖人
元和2年1月30日

第7世 修得院日性聖人
元禄元年12月15日

第8世 嗣法院日胤聖人 
正徳3年3月26日(64歳)
円眞寺大過去帳(19世日門筆)によると、貞亨5年小湊誕生寺日映聖人より小湊末円眞寺日胤に授与す、という書面が曽て存在していた。
経緯は諸説有り不明だが、このときから小湊誕生寺末寺となる。

第9世 満行院日視聖人
享保2年5月18日

第10世 一妙院日晃聖人
享保13年1月20日

第11世 唯心院日性聖人 
正徳6年2月6日
飯高檀林学室・松和田谷
初賜任聖号

第12世 義観院日鑑聖人
飯高檀林、松和田谷
細川越中守綱利の外護を受け、日蓮大聖人開眼の胎籠鬼子母尊神像を祀る

第13世 通正院日明聖人
享保16年7月3日(43歳)
飯高檀林、松和田谷

第14世 亮遠院日忍聖人
延享4年2月20日
客殿再建 賜贈聖号

第15世 宝林院日松聖人(通円)
安永4年2月1日
斎藤大学之助久義の子孫筋にあたる。
飯高檀林文能・松和田谷
堀之内妙法寺15世(中興)
飯高檀林144世
白山福相寺15世
匝瑳市妙光寺(現妙広寺)20世
八王子大乗寺15世

客殿造作・庫裏修復・祖師衣替・鳴鐘一門前石塔
賜聖号

第16世 白牛院日延聖人
宝暦3年7月29日
飯高檀林玄化 中臺

第17世 妙道院日鹹聖人 (慈雲)
寛政2年12月9日
飯高檀林玄化・松和田谷
飯高檀林165世
三田薬王寺8世

師範は塚原根本寺26世日雄
境内・客殿整備
当山過去帳での表記に基づく。
日感と号していた時期もあるとの旨が過去帳にもつけ加えられている。

第18世 妙化院日清聖人
文化1年6月6日
飯高檀林中座、松和田谷
文京区興善寺16世

師範は興津37世・身延山40世日輪
在任14年 境内・客殿修復造営

第19世 太樹院日門聖人 (了然)

文政2年1月12日(61歳)
雑司ヶ谷法明寺34世
飯高檀林玄講
任 永聖 初祖

14~19世を当時の過去帳では「中興」とある。

第20世 梵樹院日経聖人
文政5年1月7日

第21世 松輪院日寿聖人 (泰福)
慶応元年4月11日
飯高檀林文能
飯高檀林324世
雑司ヶ谷法明寺41世

第22世 玄樹院日唱聖人 (智運)
明治21年12月10日
堀切清亮寺23世
谷中妙行寺 23世

師範は21世日寿

第23世 治明院日祥聖人 (見勝)
明治35年2月14日
山科護国寺521世(※)
雑司ヶ谷法明寺44世
善部妙蓮寺18世

※当時の山科檀林護国寺は廃仏毀釈の影響による混乱期であった様であり、
寺院大鑑等によると資料がないとされ521世については触れられていない。
護国寺のホームページを拝見するも「住職常住せず」の時期にあたると思われる。

第24世 海全院日隆聖人 (石井見如)
大正4年10月29日
谷中養伝寺26世
師範は佐渡玉泉寺日相

第25世 本寂院日久聖人 (竹内見龍)
大正12年3月24日
雑司ヶ谷本納寺28世

第26世 海潮院日音聖人 (渡邊信敬)
昭和53年8月20日
善部妙蓮寺21世
雑司ヶ谷本納寺29世(寺院大鑑の本納寺の項には信敬院日音とある)
柳瀬実成寺40世
雅号 白容
戦災復興・客殿

第27世 海光院日照聖人 (渡邊誠懽)
昭和53年4月13日(65歳)
26世日音の娘・茂野の後夫 旧姓福浦
川崎妙遠寺21世
遠寿院荒行堂副伝師 日蓮宗修法師
戦災復興・本堂・庫裏

第28世(加歴) 海学院日浄聖人 (渡邊正敬)
昭和20年7月28日(31歳)
26世日音の娘・茂野の夫 旧姓桐ヶ谷
戦病死

第29世 海照院日瑞聖人 (渡邊興一)
平成18年4月28日
28世日浄の子
日蓮700遠忌事業・客殿建築
日蓮宗修法師(三行)
日蓮宗声明師等

第30世 退任

第31世 海興院日裕(渡邊眞岳)
日蓮宗声明師
日蓮宗社会教導師
遠寿院修法師(初行)

 

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

PREV

一覧へ