🆕東京都北部護法参拝団「岡山最上稲荷妙教寺参拝の旅」

開催日:2025年05月19日

 要傳寺の所属する日蓮宗東京都北部宗務所では、毎年、管内寺院・教会・結社の檀信徒を対象とした「護法団参」を実施しております。
 令和7年度は、「最上稲荷(さいじょういなり)」の通称で親しまれ、伏見稲荷・豊川稲荷と並び日本三大稲荷に数えられる岡山県の最上稲荷山妙教寺を参拝致します。1200年以上の歴史を有し、神仏習合の祭祀形態を今に伝える最上稲荷信仰の根本霊場として、正月には50万人を超える初詣客で賑わいます。
 今回はまた併せて、近傍の吉備津神社にも参拝致します。吉備大明神は、近世の日蓮宗で広く信奉された「三十番神」の一神でもあり、延命長寿・産業興隆・安産発育の守護神として尊ばれています。
 そのほかの詳細は以下の通りとなります。参加ご希望の方は、要傳寺までご一報いただければ、正式な実施要項・申込用紙をお送り致します。
 檀信徒の皆様のご参加をお待ちしております。

   記
《実施要項》
期日:令和7年5月19日(月)・20日(火)
費用:70,000円(含、開帳料・拝観料・入場料等)
〆切:令和7年3月31日
行程:5月19日
     9:15 羽田空港第2ターミナル集合
    10:15 羽田空港発~11:30岡山空港着(全日空653便)
    12:20 顕妙閣(昼食)
    13:30 最上稲荷山妙教寺参詣・特別祈祷
    15:20 吉備津神社参拝
    16:50 岡山国際ホテル(宿泊)
   5月20日
     8:00 岡山後楽園見学
    10:00 倉敷美観地区散策
    11:30 倉敷国際ホテル(昼食)
    14:40 岡山駅発~17:57東京駅着(のぞみ98号)・解散

 余談となりますが、要傳寺第38世要中院日妙(髙森聖一)上人の住職時代、戦後直後の昭和20年頃に、渡辺泰経上人という学生(がくしょう)が要傳寺に寄住していたことがあります。この方が、後に最上稲荷管長となる稲荷日信上人です。関連する寄稿文の掲載された当山の寺報『法住』5号(要中院日妙上人追悼号、昭和58年発行)の抜粋を下記に転載致します。また、『法住』43号(蓮中院日宏上人追悼号、令和2年発行)には、同寄稿文に登場する長氏からも、学生時代の稲荷上人との楽しいエピソードが寄せられておりますので、お手許のバックナンバーを御覧下さい。
 なお、稲荷日信上人とのご縁で、爾来、当山の歴代住職は、サントリーホールディングス株式会社の稲荷祭に導師として招かれ、収穫の季節を迎える毎年秋に大祭を挙行しております。同社屋上の社殿に祀られている最上位経王稲荷大菩薩は、創業者の鳥井信治郎氏が、岡山の最上稲荷から御神体を分けていただいき、商売繁盛・社運隆盛を祈念し大切に祀ってきた尊像となります。毎年の大祭の模様は、コチラから御覧いただけます。

最上稲荷の鳥井信治郎氏奉納「白狐像」

「要中院日妙上人 想い出の記」 最上稲荷山妙教寺管長 稲荷日信
 戦後間もない昭和二十三、四年の頃であったと思う、今から計算すれば、三十四、五年前のことである。私は要伝寺に世話になりながら大学へ通っていたのである。
 その頃の東京は、敗戦の傷跡深く復興への道はまだ完全ではなくて、食料、物資の不足は勿論住む家もなく浮浪の人々が駅地下道に夜を求めていた。
 私は復員後、昭和二十一年に上京しある寺院の物置部屋を借りて、仲間三人と共同自炊で生活し大学へ通学していたが、その内の一人は大学の進路を変更し中退、他の一人は病気になって私一人が学校へ残り新しい居をさがしていた時に、偶々、義兄が戦前お世話になったことがある同法縁の要伝寺を紹介され、ご無理をお願して身を寄せたのである。
 今は、すっかり新築改造され往昔の庫裡の面影はないが、昔の庫裡の小玄関の一間に机を置いて勉強しながら、ご先代の日妙上人から指導を受けたものである。
 その頃は丁度、現董宏之上人がまだ小学校在学中であったと思う。日妙上人は厳格で義理堅く、豪放にして非常に面倒味がよくて世話好きでもあったことを覚えている。
 小玄関の部屋からは山門を通って入るお客が窓ガラス越しによく見える、私は受付を兼ねて机に向かっていたものだが、日妙上人は保護司の仕事をしておられたせいか来客が多く、時間を問わず頻繁に訪れる人達に嫌な顔一つせず応待には真剣であった。懇切丁寧に相談にのって指導する上人の態度に教家の範としてその姿を見ることができた。
 さて、上人と私との関係で、印象に残ったことというと、戦後間もない食料事情の悪い時代であったから、上人と一緒に度々東北地方に満員列車に揺られてリックを背負い米の買出しに行ったことが、辛くも又楽しい思い出であった、車中で上人は学生の私に種々布教上の問題や人生について自論を聞かせてくれたり、議論に華を咲かせ時の過ぎるのを忘れたものだった。
 特に記憶に残る想い出としては、上人から大声一喝、怒鳴られたことが一度だけあったことである。
 それは隣地の長(ちょう)酒店(現在の「鶯谷萬屋酒舗」)の現社長が幼少の頃、彼が両親から教育の修行ということで私と一緒に庫裡で寝起きを共にしていた時のことであった。前夜二人とも何かで(多分観映だったか!)就床が遅くなった。案の定、朝は規定時間に起きられず二人ともぐっすり床の中で安眠!していたところ、突然に雷が落ちた。
「こらッ、泰経(私の旧名)何をぐずぐずしているか、起きろッ、お勤めに出ないなら岡山へ帰れッ」
 獅子が吼えたような大声で一喝すると上人は本堂へ歩まれて行った。
 私と長さんはびっくりして目が醒めた、二人共大慌てで身仕度して本堂のお勤めに遅刻したのである。
 後にも先にも、怒鳴られたのはこれきりであった、有難いことだと思った、他人を教育することには勇気がいるものである。私は学生時代の一時期に上人を師と仰いで生活を共に出来て学ぶことが多かった。今、ふりかえって昔の要伝寺時代を追慕すると、ただ、感謝の二文字しか見当らないのである。
 そして、上人との出会いが縁となり、その後に新しい出会いを生んで上人の仲人によって、私は妻を迎えることができたのである。

一覧へ