徳川家康ゆかりの日蓮門下寺院~大河ドラマ「どうする家康」豆知識~

 令和5年(2023)放送のNHK大河ドラマ(第62作目)「どうする家康」。
 国を失い、父を亡くし、母と別れ、心に傷を抱えた孤独な少年が、群雄割拠する戦国時代を生き抜き、ついに天下人になるまでの試練と決断の道のりを描いた本作には、織田信長(演者:岡田准一)、明智光秀(演者:酒向芳)、豊臣秀吉(演者:ムロツヨシ)はじめ、武田信玄(演者:阿部寛)、浅井長政(演者:大貫勇輔)、今川義元(演者:野村萬斎)、柴田勝家(演者:吉原光夫)、加藤清正(演者:淵上泰史)、真田昌幸(演者:佐藤浩市)、石田三成(演者:中村七之助)、前田利家(演者:宅麻伸)と次々に現れる猛者たちが物語を盛り上げます。
 当サイトの本ページでは、本作の主人公徳川家康(演者:松本潤)にゆかりのある日蓮系教団の寺院を紹介いたします。今後、随時更新して参りますので、お楽しみに。
 また、番外編として、宗派は異なりますが、要伝寺からほど近い場所にある上野寛永寺のリンクも貼っておきます。
 なお、明智光秀については、令和2年放送の大河ドラマ「麒麟がくる」の関連記事も併せてご覧下さい。

■東京都
○慈雲山 瑞輪寺(ずいりんじ/東京都台東区谷中4-2-5)…日蓮宗
 開山は慈雲院日新(じうんいん にっしん)、開基檀越は徳川家康。家康幼少の頃の学問教育の師範だった日新は、天正6年(1578)に身延山久遠寺17世として入山し、天正9年(1581)、甲州を領して身延山に詣でた家康と道話をする日々を重ね、将来に弘通所の地を寄せる約束を交わす。家康は天下統一の後、天正19年(1591)、学問教育に預かった謝儀をあらわし、先年の約束を果たして、日本橋馬喰町(ばくろちょう)に身延山久遠寺の布教所としで瑞輪寺を創建。その後、大火等による類焼で2度の移転を経て、現在の谷中の地に遷された。明治元年(1868)の上野戦争では悉く烏有に帰しているが、瑞輪寺は度重なる罹災を乗り越えて、その都度再建されている。

○妙祐山 幸龍寺(こうりゅうじ/東京都世田谷区北烏山5-8-1)…日蓮宗
 徳川家康がまだ浜松城主であった折、徳川秀忠(のちの徳川2代将軍/演者:森崎ウィン)の乳母で、玄龍院日偆(げんりゅういん にっしゅん)の檀越であった大姥局(正心院殿日幸・しょうしんいんでんにちこう)が、秀忠のために一字を建立することを家康に願い出、家康が開基となって天正7年(1579)に浜松城外に建立した。家康が駿河・江戸と居を移すたびに同寺も移され、江戸では神田湯島(のち浅草田圃)に寺域を構えた。家康の帰依は日偆の祈祷修法によるものと思われる。以後、徳川将軍家の祈願寺として外護された。

■千葉県
○安国山 最福寺(さいふくじ/千葉県東金市東金1693)…顕本法華宗(現、日蓮系単立)
 大同2年(807年)に伝教大師最澄(でんぎょうだいし さいちょう)により天台宗の寺院として創建。文明11年(1479)、京都妙満寺日遵(にちじゅん)の弘教により、顕本法華宗に改宗。慶長19年(1614)、当時の住持であった日善(にちぜん)は、徳川家康が鷹狩の際、休憩に使った東金御殿(とうがねごてん)で家康と会談し、その八ヶ月後の大阪冬の陣(1614年11月)の直前にも、駿府城内で家康に拝謁し対談したことが『駿府記』(慶長19年9月条)に記される。このことに因み、寺には家康と日善の対談の場面を描いた銅像が建つ。江戸時代には、家康から30石の寺領を受けた「御朱印寺」となり、法華宗妙満寺派の本山輪番上総十ヶ寺の一つであった。

■山梨県
○大野山 本遠寺(ほんのんじ/山梨県南巨摩郡身延町大野839)…日蓮宗
 開山は総本山身延山久遠寺を隠退した心性院日遠(しんしょういん にちおん)、開基は徳川家康側室の養珠院お万(ようじゅいん おまん)。慶長13年(1608)、上野寛永寺(天台宗)とならび徳川家菩提寺となった芝増上寺(浄土宗)学僧の廓山(かくざん)と、京都妙満寺(当時、日蓮宗不受布施派)の常楽院日経(じょうらくいん にちきょう)が江戸城で宗論を交わし、結果、日経が敗れると、家康は日蓮教団各本山に、日蓮が主張する「四箇格言」の一つ「念仏無間」は経典にない空論だという誓状を提出するよう迫った(慶長法難)。身延山22世であった日遠は、法論に不正があったことを訴え、誓状の提出を拒み再宗論を求めて抗議したため、謀反人にされ安倍川の河原で磔刑に処される事となった。これを知ったお万は、師事した日遠と共に自らも処刑されることを家康に願い出た。家康はお万の信仰心と覚悟を知り日遠を赦したという。その後、日遠は刑余の身をはばかり身延山を出て大野の庵で隠棲。お万は二人の子供、紀州の徳川頼宣(紀伊徳川家の祖、徳川吉宗の祖父)と水戸の徳川頼房(水戸徳川家の祖、徳川光圀の父)に命じて大野に大伽藍を寄進させ、かくして慶長14年(1609)本遠寺は創建された。なお、お万の父正木頼忠は、三浦義同(よしあつ)-正木時綱(通綱)-時忠-頼忠と連なる正木三浦氏の出自で、その祖先は、前作大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場した三浦義村の娘矢部禅尼北条泰時の初婚の妻)が佐原盛連に再嫁して産んだ加納盛時(のち三浦盛時)と伝えられる。三浦一族は、鎌倉時代宝治元年(1247)の宝治合戦(三浦氏の乱)で、北条氏の外戚安達(あだち)氏らによって滅ぼされるが、その血筋は、養珠院お万を先祖にもつ水戸徳川家へと続き、大河ドラマ「青天を衝け」に登場した徳川慶喜まで繋がるのである。詳細は、コチラから。

■静岡県
○貞松山 蓮永寺(れんえいじ/静岡県静岡市葵区沓谷2-7-1)…日蓮宗
 開山は、日蓮聖人の直弟子六老僧の蓮華阿闍梨日持(れんげあじゃり にちじ)。もと駿河国松野村に所在したが、日持が永仁3年(1295)に東北への布教伝道に出立すると、無住同様の様相を呈し、また甲斐武田氏の兵火にも遭って全く荒廃の情況をみた。徳川家康側室の養珠院お万(先述)がこれを歎き、家康に請うて、駿府城を守る鬼門にあたる沓谷(くつのや)郷を拝領し、松野の地から移されて再興される。

○経王山 妙法華寺(みょうほっけじ/静岡県三島市玉沢1)…日蓮宗
 日蓮聖人直弟六老僧の弁阿闍梨日昭(べんあじゃり にっしょう)の開山。聖人在世当時にあっては鎌倉浜(従来説では「浜土」)の地に庵を結んでいたが、聖人歿後の弘安7年(1284)に経王山法華寺と寺号を称するようになった。その後、鎌倉材木座、高御倉小路、伊豆加殿村と移転し、15世日産の代に現在の玉沢の地に移され、元和7年(1621)、養珠院お万(先述)、英勝院お嘉知(えいしょういん おかち)、徳川頼宣、徳川頼房、太田道顕、三浦為春らが大檀那となって巨額の浄財が寄せられ、大伽藍が整った。徳川家家紋「三つ葉葵」の使用を許された数少ない古刹のひとつである。

○長光山 妙恩寺(みょうおんじ/静岡県浜松市東区天龍川町179)…日蓮宗
 応長元年(1311)に肥後阿闍梨日像(ひごあじゃり にちぞう)が開創し、開基は金原法橋(きんばらほっきょう・かなはらほうきょう)とされる。同寺11代日豪(にちごう)は武田家の重臣馬場美濃守の末子であったが、徳川家康・武田軍対陣の際、徳川軍が妙恩寺を本陣に使用することを許諾し、また三方ヶ原の合戦で敗れた家康が妙恩寺に身を隠し、難を逃れたという伝説(天井裏の家康伝説)も残されている。これらのことによって日豪は家康から信頼を受け、家康が浜松城に在城するようになると、寺の紋に「丸に出二つ引き」を与えられ、囲碁の友としても親交を深め、家康の後年には日豪の為に浜松城内に一宇の精舎を建立して与えた。現在の妙恩山法雲寺(静岡県浜松市中区浜松市高町300-3)がそれにあたる。

○徳永山 光長寺(こうちょうじ/静岡県沼津市岡宮1055)…法華宗本門流
 法華宗四大本山の一つ。建治2年(1276)、日蓮聖人の直弟和泉阿闍梨日法(いずみあじゃり にっぽう)・蓮明阿闍梨日春(れんみょうあじゃり にっしゅん)によって建立された。9世日浄(にちじょう)の代には今川氏元(『日蓮宗事典』による。正しくは葛山氏元か)より寺領が寄進され、天正19年(1591)には徳川家康から寺領の寄進を受けた。また家康が鷹狩の途中に止宿したおり、家康より網代乗輿を賜っている。

○富士山 本門寺(ほんもんじ/静岡県富士宮市西山671)…本門宗(現、日蓮系単立)
 康永3年(1344)、白蓮阿闍梨日興(びゃくれんあじゃり にっこう)の弟子日代(にちだい)が、西山の地頭大内安清からの寄進を受け建立。興門派八本山の一つ。天正年間には、当地で最大勢力を誇っていた武田勝頼(演者:眞栄田郷敦)の庇護を受けていたが、同10年(1582)の武田家滅亡後は、徳川家康から諸役免除の朱印を与えられ、徳川家の庇護を受けるようになった。同寺には、顕本法華宗の僧で囲碁の名手として知られる本行院日海(ほんぎょういん にっかい・本因坊算砂)の命により織田信長の首を葬ったと伝えられる首塚がある。

■福井県
○最初具足山 妙顕寺(みょうけんじ/福井県敦賀市元町9-18)…日蓮宗
 天長2年(825)に春鴬山気比神宮寺として藤原北家の藤原武智麻呂により開かれた寺院であったが、日蓮聖人の遺命をうけ帝都弘通を目指す肥後阿闍梨(龍華樹院・りゅうげじゅいん)日像(1269-1342)が北陸開教の際に立ち寄り、当時、真言宗であった同寺の住僧覚円との問答の末、改宗した。
 龍華日像は、京都に龍華具足山妙顕寺・西龍華具足山立本寺・北龍華具足山妙覚寺の所謂「龍華の三具足」と称される寺院を建立するが、敦賀妙顕寺は、北陸開教で最初に日像によって開かれた具足山であるところから、山号を「最初具足山」という。敦賀妙顕寺は、また、妙勧寺(福井県越前市)、妙泰寺(福井県南条郡)、妙興寺(福井県小浜市)とともに日像菩薩四箇聖跡と呼ばれている。
 元亀元年(1570)、織田信長による朝倉攻めの遠征の際、徳川家康・木下藤吉郎(豊臣秀吉)らが金ヶ崎城・手筒山城攻めの本陣として共に妙顕寺に宿当している。
 >「紀行潤礼~どうする家康ツアーズ」第14回「福井県若狭町・敦賀市」はコチラから。

■大阪府
○広普山 妙國寺(みょうこくじ/大阪府堺市堺区材木町東4-1-4)…日蓮宗
 永禄5年(1562)、日蓮宗の学僧仏心院日珖(ぶっしんいん にちこう)が開山する。境内地に樹齢1100年を超える蘇鉄(ソテツ)があり、幹枝は大小120数本を数え、周囲は17m、樹高は5m以上に及び、国の天然記念物に指定されている。この大蘇鉄は、安土桃山時代、戦国武将織田信長の所望で安土城に移植されるが、毎夜「堺に帰りたい」と泣くので、信長は激怒して切り倒すことを命じた。蘇鉄は切り口から鮮血を流し大蛇のごとく悶絶し、これに恐れをなした信長は再び妙國寺に返したと伝えられる(「夜泣きの蘇鉄」伝説)。同寺は、商人や来堺した戦国武将たちの信奉を受けて栄華を極めながら、大阪夏の陣で「徳川家康妙國寺に有り」と聞きつけた豊臣軍により火を放たれ、灰燼に化すなど度々焼失している。しかし、そうした大火をくぐり抜け生き残った霊木の蘇鉄は、厄除け・吉祥のシンボルとして崇められてきた。境内には幕末土佐藩士割腹跡の碑が立ち、他にも千利休が寄贈した六地蔵や手水鉢、徳川家康・与謝野晶子・正岡子規が蘇鉄を詠んだ歌碑も点在する。
 >「紀行潤礼~どうする家康ツアーズ」第28回「大阪府堺市」はコチラから。

■愛知県
○大光山 善立寺(ぜんりゅうじ/愛知県岡崎市祐金町1)…日蓮宗
 応仁元年(1467)、本是院日護(ほんぜいん にちご)が創建したのが始まりと伝えられる。元々は安城の地にあり、安祥城主であった松平親忠が深く信仰を寄せ、その後、松平清康が安祥城から岡崎城に移ると同時に寺も移り、松平家の武運長久を祈願し、松平広忠(演者:飯田基祐)より寺領を寄進された。徳川家康が菅生川で川遊びをしたとき、よくこの寺で休んだと伝えられ、境内には家康の手植えと伝えられる古名木「臥竜梅」(がりゅうばい)がある。天正18年(1590)、家康が江戸に入ると4世日得はこれに従い、江戸浅草に善立寺を遷した。

【番外編】
○東叡山 寛永寺(かんえいじ/東京都台東区上野桜木1-14-11)…天台宗
 寛永寺は、徳川家康・秀忠・家光(演者:潤浩)の三代にわたる将軍の帰依を受けた慈眼大師南光坊天海(じげんだいし なんこうぼう てんかい/演者:小栗旬)大僧正によって、寛永2(1625)年、徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、江戸城の鬼門(東北)にあたる武蔵国上野の台地に建立された。3代山主には、後水尾天皇の皇子守澄(しゅちょう)法親王を戴き、以来歴代山主を皇室から迎えることになった。また、山主に対して、朝廷より輪王寺宮(りんのうじのみや)の称号が下賜され、輪王寺宮は比叡山延暦寺、東叡山寛永寺、日光山万願寺(現、輪王寺)の山主を兼任、三山管領宮(さんざんかんりょうのみや)と言われ、文字通り仏教界に君臨することとなる。同寺は、令和7年(2025)に創建400周年を迎える。

 

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