第61作目となるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。平安末から鎌倉前期を舞台に鎌倉幕府誕生の過程で繰り広げられる権力闘争と、その勝者で北条得宗家の祖となった北条義時を主人公に描く本作には、同じ鎌倉時代を生きた日蓮聖人の門弟とその周辺人物の関係者たちが出演しています。主な人物を以下に紹介します。
なお登場人物の系譜や家系には諸説あるため、紹介する続柄は必ずしも断定するものではないことを付記しておきます。
また、「鎌倉殿の13人」に関しては、こちらにも関連記事を掲載しましたので、ご覧下さい。因みに、本作品の登場人物全体相関図は、こちらのNHK公式サイトから参照いただけます。
(1)北条義時(ほうじょう よしとき/1163~1224)〓演者・小栗旬
本作の主人公。鎌倉幕府第2代執権。日蓮聖人が『立正安国論』を上奏した第5代執権北条時頼(1227~1263/大河ドラマ「北条時宗」では渡辺謙が演じる)の曾祖父、第8代執権北条時宗(1251~1284/大河ドラマ「北条時宗」では和泉元彌が演じる)の高祖父にあたる。
法華経に熱心な信仰を捧げ、天照大神を祀る伊勢神宮に安房国東条郷より御厨を寄進し、八幡大菩薩を奉る鶴岡八幡宮を鎌倉に造営して幕府を開いた源頼朝と、これを扶けた北条義時とを、日蓮聖人は高く評価している。これは、天照・八幡の百王守護に背いて南都北嶺の寺々を焼いた平清盛や、邪法の祈祷によって滅亡した平家一門に対する評価と実に対照的である。特に、承久の乱では、邪法に頼って義時を調伏せんとした上皇軍を義時が敗った事実を取り上げて、承久の乱は、王と臣の世法の上の争いではなく、邪法としからざるものとの仏法上の争いであると捉えている。
日蓮聖人は、義時以降の北条氏を「国主」と是認したので、以降、執権を国家諫暁の対象とした。
(2)伊東祐親(いとう すけちか/~1182)〓演者・浅野和之
平安時代末の武将であり、伊豆国伊東の豪族。工藤氏6代目、伊東氏の祖でもある工藤祐隆(伊東家次)の孫、河津氏の祖、北条義時の祖父。平家に仕え、その威光を後ろ盾に頭角を現す。伯父の伊東佑次の子工藤祐経は従兄にあたる。
安元2年(1176)、工藤祐経の襲撃を受け、嫡男の河津祐泰を誅されるが、その仇を討った佑成(曽我十郎)・時致(曽我五郞)の物語は『曽我物語』として語り継がれている。
(3)工藤祐経(くどう すけつね/1147~1193)〓演者・坪倉由幸
伊東家の嫡男であったが、後見人であった伊東祐親の裏切りに合い、伊東の地を追われる。
日蓮聖人の高弟「六老僧」の筆頭弁阿闍梨日昭(1221~1323)からは祖父にあたり、日昭の父は印東祐昭(いんとう すけあき)、母が工藤祐経の長女であると伝えられる。また、工藤祐経の孫伊東祐光(すけみつ/生没年未詳)は、伊豆国伊東の地頭として、伊豆流罪に処された日蓮聖人の身柄を預かった。
一説に工藤家の一族には、小松原法難で殉教した工藤吉隆(1233~1264)がいたと推測されているが確証はない。因みに、日昭の姉と池上康光の間に生まれたのが池上宗仲・宗長兄弟で、また妹の妙朗と印東(平賀)有国の間に日朗、妙朗と平賀忠治の間に日像がおり、いずれも日昭からは甥にあたることになる。
(4)比企能員(ひき よしかず/~1203)〓演者・佐藤二朗
武蔵の有力武士で、源頼朝の乳母である比企尼の養子。頼朝の側近となるが、のちに北条氏と対立する。
日蓮信者の妙本(生没年未詳)の夫でもあり、ふたりの間に比企大学三郎能本(よしもと/~1286)が生まれている。能員・妙本の息女若狭局(のちの讃岐局)は鎌倉幕府第2代征夷大将軍源頼家の側室となり、一幡(いちまん)を産んだが、この一幡を巡って後に将軍職の継承問題が起り、比企氏と北条氏との権力政争となる。その結果、建仁3年(1203)、能員は北条時政に謀殺され、その一門も北条氏によって一幡と共に滅ぼされた。若狭局も一幡の後を追って自死したという。
能員の遺子比企能本は、日蓮聖人の鎌倉弘通の時に帰依し、父母の追善のため文応元年(1260)に法華堂(のちの比企谷妙本寺)を建てた。
(5)安達盛長(あだち もりなが/1135~1200)〓演者・野添義弘
鎌倉幕府の御家人、安達氏の祖で、源頼朝の流人時代からの側近である。その孫にあたる安達泰盛(やすもり/1231~1285)は、第8代執権北条時宗の妻の父で、のちの北条貞時の外祖父にあたる(大河ドラマ「北条時宗」では柳葉敏郎が演じる)。
泰盛は、書を通じて親交のあった日蓮信者の大学三郎(比企能本)とともに、龍口法難にあたり得宗被官の平頼綱(大河ドラマ「北条時宗」では北村一輝が演じる)によって捕らえられた日蓮聖人の窮地を救うべく助命運動を行ったとされる。
聖人歿後には平頼綱と敵対し、弘安8年(1285)の霜月騒動でその一族は滅ぼされるが、永仁2年(1294)、北条貞時(北条時宗の子)が仇討ちを果たし、頼綱一族も滅ぼされた。これらの内乱騒動が幕府崩壊を加速させることとなる。
(6)千葉常胤(ちば つねたね/1118~1201)〓演者・岡本信人
下総国(千葉県)の雄族で、鎌倉幕府草創期の有力御家人。千葉氏第3代当主。治承・寿永の乱(源平合戦)には見事な勲功をたて、下総国の守護職に補せられた。また武蔵、上総、伊賀(三重県)、肥前(長崎)などに地頭職を与えられ、一族が全国的に広がっていく基をなした。
日蓮聖人が房総で布教活動を展開したのは、千葉氏第8代当主の千葉頼胤(よりたね/~1274)の時代である。日蓮聖人の大檀越富木常忍(とき じょうにん/1216~1299)は、この頼胤の被官として重きをなした人物で、守護の周囲に多くの信者を創出するなど、重要な役割を果した。
九州大学・福岡大学の川添昭二氏によれば、日蓮聖人は、富木氏を通じて、九州千葉氏から幕府の対蒙古政策の進展や、文永・弘安の役の速報を収集していた可能性が高いという(川添昭二著『日蓮とその時代』〈山喜房仏書林・1999年〉、同『日蓮と鎌倉文化』〈平楽寺書店・2002年〉、同『中世・近世博多史論』〈海鳥社・2008年〉ほか往見)。
(7)文覚(もんがく/生没年不詳)〓演者・市川猿之助
文覚は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて登場する北面の武士で、京都高雄山の真言宗神護寺の僧。俗名は遠藤盛遠(もりとお)。弟子に上覚、孫弟子に栂尾明恵(とがのおみょうえ)らがいる。『平家物語』によれば、神護寺の再興を後白河天皇(演者・西田敏行)に強訴したため伊豆国に配流され、同じく伊豆に流された源頼朝と知り合い、頼朝に亡父源義朝の髑髏を示して平家追倒の兵を挙げるよう促したという。京都伏見区戀塚寺近くに地名の残る「赤池」の名の由来となった「袈裟御前」との横恋慕の物語は、人形浄瑠璃などに演じられ知られている。
六牙院日潮(1674~1748)の『本化別頭仏祖統紀』によると、この遠藤盛遠の曾孫が、同じく北面の武士であった遠藤為盛(1189~1279)であるという。為盛は、順徳上皇に仕え、承久3年(1221)の承久の乱で上皇と共に佐渡に渡った。上皇崩御の後に出家して阿仏房(あぶつぼう)と名乗り、文永8年(1271)佐渡流罪となった日蓮聖人と出会っている。詳細は、上田本昌稿「阿仏房について」『印度学仏教学研究』26巻1号(1977年12月)を参照。
(8)畠山重忠(はたけやま しげただ/1164~1205)〓演者・中川大志
武蔵国の有力御家人。源頼朝の挙兵に際して当初は敵対するが、のちに臣従して活躍、幕府創業の功臣として重きをなした。存命中から知勇兼備の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された。頼朝の歿後、初代執権北条時政の謀略によって討伐される(畠山重忠の乱)。
日蓮遺文『日女御前御返事』1511頁では、畠山重忠を「日本第一の大力の大将」と語っており、これが一ノ谷の合戦における鵯越の逆落としにあたり畠山が馬を背負ったという故事をさすものとすれば興味深い。
日蓮聖人の直弟子(六老僧)のひとり白蓮阿闍梨日興筆『産湯相承事』によれば、日蓮聖人の母梅菊(うめぎく)は「畠山の一類」といわれる。近年の研究では、畠山重忠の初婚の女性が、足立遠元の娘菊の前で、ふたりの間に生まれたのが梅菊であるとも考えられている(石川修道稿「宗祖の母・梅菊「畠山重忠有縁説」の一考察」『現代宗教研究』42号・2008年)。
なお、日蓮聖人の門弟には畠山一族の血縁者が名を連ね、六牙院日潮筆『本化別頭仏祖統紀』等によれば、畠山(印東)祐昭と工藤祐経の娘は、池上康光の室となり池上宗仲・宗長を産み、妹は平賀有国の室となり大国阿闍梨日朗を産んだと伝わる。また、畠山祐昭と工藤祐経の娘の間に生まれた男児が弁阿闍梨日昭と伝えられる。
(9)後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/1180~1239)〓演者・尾上凛・菊井りひと(幼少期)/尾上松也
高倉天皇の第四皇子。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。文武両道で、『新古今和歌集』の編纂でも知られる。鎌倉時代の承久3年(1221)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、上皇軍は幕府軍に敗れ、後鳥羽上皇は隠岐、土御門上皇は阿波、順徳上皇は佐渡へ配流、仲恭天皇は廃位となった(承久の乱)。
後鳥羽上皇は、延応元年(1239)に隠岐で崩御するが、一説に、この後鳥羽上皇の愛妾となった白拍子の亀菊(かめぎく)の子が、日蓮聖人であったとする説(皇胤説・皇統説)が唱えられている(亀菊は、「鎌倉殿の13人」第46回―将軍になった女―にその名だけが登場)。日蓮聖人の出自を巡っては諸説あるが、廣野観順氏によれば、承久の乱で隠岐に配流された後鳥羽上皇は、我が子を身籠もった亀菊を、幕府の刺客から逃すために隠岐を離れさせており、その翌年の承久4年(貞応元年)に日蓮聖人が誕生していることを指摘する(廣野観順著『法剣数珠丸考及聖祖皇統説への一勘検』〈ニチレン出版・2000年〉往見)。
立正大学の伊藤瑞叡氏によれば、その後、幼少の薬王丸(のちの日蓮聖人)は、安房国小湊の西蓮寺という天台宗寺院の近くで、雪(ゆき)あるいは雪女(ゆきめ)と名乗る乳母(めのと)に養育された(法華仏教文化総合研究会編『日蓮聖人の御出自に関する三つの仮説』〈『法華学報』別冊特集1号・1994年〉、同『日蓮聖人と弟子檀那もう一つの伝承説』〈『法華学報』別冊特集2号・1995年〉ほか往見)。同寺は、幼少の聖人が道善房とともに12年間過ごした霊跡に指定されており、現在も同寺の境内に、雪女の供養のために建てられた「妙宗信女塔」という宝篋印塔(ほうきょういんとう)が伝わる(「薬王丸御乳母妙宗信女塔」の刻字あり。要伝寺第36回団体参拝記録参照)。同寺の所伝では、聖人は乳母の雪が歿した2ヶ月後、天福元年(1233)5月、12歳の時、同寺住持道善房に導かれ、清澄寺へと入山したといい、これが「十二入山」の真実であったという。
ちなみに、後鳥羽院の形見として日蓮聖人に譲られたのが、兵庫県尼崎本興寺蔵の重文「数珠丸(太刀 銘恒次)」であったと伝えられる。また、日蓮聖人の大檀越富木常忍(前掲)の父土岐光行は、後鳥羽院の宮中出仕者、母は源実朝(千幡)の側近と伝えられるが、その本領地は、後鳥羽院が配流された隠岐(島根県)の近く因幡国(鳥取県)法美郡富城で、兄の土岐光定は隠岐守であるとも言われるなど、偶然にしては後鳥羽院と日蓮聖人の接点は多い。
(10)名越朝時(なごえ ともとき/1193~1245)〓演者・髙橋悠悟(少年期)/西本たける
名越北条氏の祖。北条義時の嫡男(比企朝宗の娘姫の前との子)であったが、義時側室の阿波局(伝未詳・諸説あり。ドラマでは伊東祐親の娘八重にあてる)が産んだ庶長子の北条泰時(頼時)が3代執権になると、朝時は嫡流を外されて、祖父北条時政の屋敷であった名越亭(現在の鎌倉安国論寺の近傍にあったか。鎌倉市教育委員会編『鎌倉市埋蔵文化財緊急調査報告書』28〈2012年3月発行〉等往見)を与えられた。
この名越北条朝時の妻が日蓮聖人の信者となり、のちに龍口法難にて退転した「名越の尼」であると考えられている(高木豊著『日蓮―その行動と思想―』〈評論社・1980年/太田出版・2002年〉、髙橋俊隆著『日蓮聖人の歩みと教え〈鎌倉期〉』〈円山妙覚寺御遺文勉強会・2016年〉ほか往見)。
また朝時の嫡男が、名越光時で、光時は5代執権北条時頼を廃しようと画策したため、所領を没収され、伊豆江間郷へ配流となった。光時の子は、江間太郎親時、江間次郎盛時と、以後、江間(江馬)氏を称している。この名越光時や江間(江馬)氏らに執事として親子代々仕えたのが、四条頼員と四条頼基である。特に四条頼基は、鎌倉桑ヶ谷で施療所を営んでいたとされる名医で、鎌倉における有力檀越として日蓮聖人を外護したことで知られる。
(11)平盛綱(たいらの もりつな/生歿年未詳)〓演者・きづき
鎌倉幕府の執権北条氏の家令。のち北条得宗家の御内人で、鎌倉幕府8代執権北条時宗・9代執権北条貞時に仕えた平頼綱(へいの よりつな)を養子として迎えている。平頼綱は、文永8年(1271)9月、日蓮聖人を鎌倉龍口頸の座で斬罪に処せんとした時(龍口法難)の侍所所司(大河ドラマ「北条時宗」では北村一輝が演じる)。日蓮聖人歿後の弘安8年(1285)、霜月騒動を起こして安達泰盛(前掲)を滅ぼすが、永仁2年(1294)、泰盛孫の北条貞時(北条時宗の子)に仇討ちされ、頼綱一族も滅ぼされた。二度の元寇と、これらの内乱騒動が、幕府崩壊の引き金となり、元弘3年/正慶2年(1333)、鎌倉幕府は滅亡する。
(文責 高森大乗)
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