NHK大河ドラマ「青天を衝け」と川路聖謨

 令和3年放送の記念すべき第60作目となる大河ドラマ「青天を衝け」
 人類史上無類の繊細かつ豊潤な文化を熟成させた江戸時代が終焉を迎え、欧米列強に対抗するための欧化に涙ぐましい努力を重ねながら国力をつけて、堂々たる「近代」国家へと生まれ変わった日本。しかし、忘れてはいけないのは、かくして制度は一新したものの、明治時代を築いた精神は封建時代に確立した武士道そのものだったことです。名実ともに武士の自覚をもった真正のエリートたちによって明治維新は断行されました。それは、決して江戸時代以前の価値観や精神性を否定するものではなかったのです。
 幕末から新時代の荒波を生き抜いた渋沢栄一の生涯を描く本作には、高森聖一こと当山第38世要中院日妙上人の祖父と伝えられる川路聖謨(かわじとしあきら)も登場します。川路聖謨(1801~68)は、豊後国(大分県)日田の生まれ。佐渡奉行、普請奉行、奈良奉行、勘定奉行、外国奉行などを歴任した江戸時代の幕臣で、嘉永6年(1853)ロシア使節プチャーチンの来航に際し、翌年長崎で交渉にあたり、安政元年(1855)伊豆下田で日露和親条約を結びました。川路は日本が不利な立場にならないよう、交渉では毅然とした態度をとったと伝えられます。その比類なき外交手腕や、誠実で情愛深く、機知に富んだ魅力的な人柄は、しばしば時代小説に描かれています。
 川路は引退後、中風(ちゅうぶ)による下半身不随や弟の井上清直の死去など不幸が続きました。戊申戦争の際、勝海舟と西郷隆盛の会談で江戸無血開城が定まったことを知らなかった川路は、肢体不随の身にて倒幕軍に捕らえられれば幕府側の交渉が不利になることを危惧し、慶應4年(1868)、自邸にて割腹の上、ピストル自殺しました。今日、東京上野池之端の日蓮宗大正寺(だいしょうじ)にその墓所があります。

高森家個人蔵の伝川路聖謨掛軸。「まずしきもの救はむ料とて/公へ黄がねたてまつれるなし人か/物記してよと□□れは/左衛門尉聖謨/人めぐむこゝろ(心)ぞ/すでに/其家の/ちとせ栄行/もとゐ成ける(カ)」と記される。

川路聖謨が用いた家紋_《参照》https://irohakamon.com/kamon/kikkou/kikkounimitsuboshi.html

 高森家の所伝では、当山38世要中院日妙(高森聖一/1900,7,7~1982,7,29)上人の父で、東松山神戸妙昌寺36世・栃木佐野妙顕寺40世・葛飾堀切妙源寺35世・谷中瑞輪寺43世を歴任した輪中院日澄(高森玄碩/1861,5,7~1941,7,26)上人は、川路聖謨の庶子と伝えられ、7歳の時に聖謨が歿すると、山梨県東八代郡の高森幸兵衛家に養子として引き取られたといいます。19歳の時に、同じ山梨県の日蓮宗総本山身延山久遠寺74世吉川日鑑(きっかわ にちかん/~1886)上人について出家、ついで22歳の時、中山法華経寺117世・第17代日蓮宗管長を務めた梨羽日鐶(なしば にちかん/~1913)上人に師事しました。現在知られている川路家の系図には玄碩の名は見えませんが、その昔、武士が自害した際には、供養のため一族から僧侶を出さなければならないという風習があったと言われ、このため系図には記されなかったのかも知れません。詳細は、当山護持会発行の『法住』40号(平成29年)門間晶子氏(川路聖謨子孫)寄稿「私の植桜楓之碑物語」、同45号(令和4年)「大河ドラマ「青天を衝け」と川路聖謨」をご参照ください。
 なお、玄碩師は、明治8年(1875)創刊の仏教新聞『明教新誌』4190号(明治31・1898年10月18日)・4191号(同10月20日)・4193号(同10月24日)・4195号(同10月28日)・4196号(同10月30日)・4198号(同11月4日)・4199号(同11月6日)に「寺院濫用論」に関する連載を投稿し、4201号(同11月10日)・4202号(同11月12日)には、師を評した記事や寄書きが掲載されています。   (文責 高森大乗)

現代仏教家人名辞典刊行会編『現代仏教家人名辞典』,現代仏教家人名辞典刊行会,1917. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1913792 (参照 2024-11-12)【部分】

右は山梨県笛吹市の改製原戸籍謄本、左は東京都台東区の原戸籍謄本。玄碩は、山梨の高森幸兵衛・むら夫婦の養子として迎えられたが、その後、幸兵衛に嫡男源兵ヱが誕生したため、明治32年(1899)8月に当時の戸主豊太郎(源兵ヱの子、玄碩の甥)によって弟分家として除籍され、千葉県市川真間へ転籍。明治41年(1908)3月に埼玉県東松山の妙昌寺に入り、昭和4年(1929)9月に要伝寺のある根岸に籍を移している。

 ご参考までに川路聖謨関連の文献・資料類の一部を下記にご紹介します。川路聖謨については、史料・学術書に始まり、小説・漫画(手塚治虫・みなもと太郎)・古典落語(3代目桂米朝「鹿政談」)・講談(6代目神田伯山「鹿政談」)に至るまで幅広い分野で取り上げられておりますが、とりわけ吉川弘文館人物叢書の『川路聖謨』をお薦めします。

   記
【史料・資料等】
川路寛堂編述『川路聖謨之生涯』(吉川弘文館、1903年/マツノ書店、2014年)
藤井貞文・川田貞夫校注『長崎日記・下田日記』 (平凡社『東洋文庫』124、1968年)
川田貞夫校注『島根のすさみ―佐渡奉行在勤日記』 (平凡社『東洋文庫』226、1973年)
川田貞夫校注『東洋金鴻―英国留学生への通信』 (平凡社『東洋文庫』343、1978年)
川田貞夫著『川路聖謨』 (吉川弘文館『人物叢書』214、1997年)
山田三川著『想古録1 近世人物逸話集』 (平凡社『東洋文庫』632、1998年)
山田三川著『想古録2 近世人物逸話集』 (平凡社『東洋文庫』634、1998年)
大口勇次郎監修『勘定奉行・川路聖謨関係史料』全6巻(ゆまに書房『江戸幕府勘定所未刊史料集』、2015年)
*尚、国立国会図書館次世代システム開発研究室の次世代デジタルライブラリーでも、川路聖謨関係文書を閲覧できます。

【伝記・小説・創作等】
中野好夫著『中野好夫』(筑摩書房『ちくま日本文学全集』55、1993年)
手塚治虫作『陽だまりの樹』全8巻(小学館『小学館文庫』、1995年)
吉村昭著『落日の宴 勘定奉行川路聖謨』上下巻 (講談社、1996年)
佐藤雅美著『立身出世―官僚川路聖謨の生涯』(文藝春秋、1997年)
佐藤雅美著『官僚川路聖謨の生涯』(文春文庫、2000年)
氏家幹人著『江戸奇人伝―旗本・川路家の人びと』 (平凡社『平凡社新書』88、2001年)
渋谿いそみ著『川路聖謨と異国船時代』(国書刊行会、2001年)
みなもと太郎作『風雲児たち』全20巻(リイド社、2002年~2003年)
みなもと太郎作『風雲児たち』幕末編全34巻(リイド社、2002年~2020年)
植木静山著『ロシアから来た黒船―幕末の北方領土交渉』(扶桑社、2005年)
髙木國雄著『この国のために─川路聖謨』全2巻(鳥影社、2013年)
出久根達郎著『桜奉行 幕末奈良を再生した男 川路聖謨』(養徳社、2016年)
匂坂ゆり著『川路聖謨とプチャーチン 今蘚える幕末の日露外交史』(桜美林大学北東アジア総合研究所、2016年)
藤田覚著『勘定奉行の江戸時代』(筑摩書房『ちくま新書』1309、2018年)
出久根達郎著『花のなごり―奈良奉行・川路聖謨―』(養徳社、2021年)
黒田高弘編『近代奈良の発展に尽力した川路聖謨&渋沢栄一』(一般社団法人なら文化交流機構『月刊大和路ならら』274号、2021年)

奈良市猿沢池傍の川路聖謨植桜楓之碑にて(2023年5月20日撮影)

安政4年『江戸切絵図』の玉池稲荷(左)と安政5年『御府内沿革図書』の川路聖謨屋敷_東京市編『御府内沿革図書』第一篇下,東京市.国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3436304 (参照 2024-12-04)。川路は江戸府中に三か所の屋敷地をもっていたが、お玉ヶ池種痘所の開設にあたり伊藤玄朴・大槻俊斎・手塚良仙(手塚治虫の高祖父)らに提供した神田誓願寺前の幕府拝領地もそのひとつ。お玉ヶ池種痘所は、その後、西洋医学所、医学所等と改称・発展し、今日の東京大学医学部の前身となった。

 尚、川路聖謨が登場する大河ドラマと演者は下記の通り(敬称略)。
『翔ぶが如く』平成2(1990)年放送  演者:伏見哲夫
『徳川慶喜』平成10(1998)年放送  演者:勝部演之
『篤姫』平成20(2008)年放送    演者:本多 晋
『青天を衝け』令和3(2021)年放送  演者:平田 満

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