先日、次女のアルバイト初給料日だった。
まだほんの数千円。だが、スマホアプリの口座に表示されたその数字を見て、彼女の頬がふわりとゆるんだのを、私は見逃さなかった。
それはまるで、宝箱を開けた子どものような、純粋な笑顔だった。
「おろしに行きたい!」
そう懇願してきた娘に、私は思わず「さすが我が子だ」と心の中でひとこと。
私の考えでは、若い頃の貯金はさほど意味をなさない。
なぜなら、お金の“価値”というものは、時と共に静かに姿を変える。
学生時代の1万円と、大人になってからの1万円では、同じ顔をしていても違う力を持っている。
だったら、価値が高いうちに、価値のある使い方をすればいい。
娘は、まるでその思想を体現するかのように、すぐにATMへと向かった。
その帰り道、「スーパー寄っていい?」と彼女。
一体何を買うのかと、そっと覗いてみれば――
そこには、家族全員の好みにぴったりな食べ物たちが、ひとつずつ、カゴの中に並んでいた。
「これはお父さんの必要なやつでしょ」
「これ、妹が喜ぶと思う」
「お母さん、最近これ好きだよね」
「おばあちゃんこの前これ飲んでた!」
すごい。全部覚えている。
それだけでも胸が熱くなったが、さらに驚いたのはその手際のよさ。
自分の欲しいものは後回し。いや、もしかしたら自分の分は何も買っていなかったのかもしれない。
人が喜ぶためにお金を使うという感覚は、若いうちにこそ身につけてほしいと思っていた。
それが自然にできる娘の姿を見て、私は胸の奥で何かがじんわりと温かくなるのを感じた。
「これはきっと、将来の彼女を豊かにするだろうな」
まさにこれは仏教でいうところの「財施」という布施行の一つ。
「財施」は、物やお金を他者のために惜しまず差し出すこと。
その価値は、物の量ではなく、心の込められた贈り方にあるとされる。
学ばずともそれが出来る彼女は、勉強が多少苦手でも嫌いでもいい。そう思わせてくれた。
そして帰宅後、私は娘にもらったプロテインゼリーの蓋を開けてパソコンの前にいる。
尊い布施を味わおうと思い、蓋を開け口元に運んだ瞬間、窓からハチが飛び込んできて、私の防御力ほぼゼロの頭にぶつかってきた。
とっさに手に持っていたプロテインゼリーを握りしめてしまった私の机の上には、無惨に飛び散った次女の思いやりが散乱。
机の上にこぼれ各資料に染み込んだゼリー。しかしその「布施のこころ」は、しっかり私の胸に染みこんだ。
モノは壊れても、やさしさの記憶はこぼれない。それもまた、仏さまが教えてくれた「諸行無常の功徳」なのかもしれない。

