能勢法華成立から吉田新田開拓

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横浜市中区の関内…この辺りは、私が病院の付帯施設開設の為、足繁く県庁通いをしていた頃、よく歩いていたエリア。

プライベートでも、イセザキモールの有隣堂書店、馬車道の 十番館や勝烈庵、横浜スタジアム…とてもとても思い出深い場所だったんです。そんな関内駅界隈が、私が住む故郷と大変密接な関係?にあることを最近知りまし た。

お話は、今から400年ほど前に遡ります。
1603年(慶長8)、征夷大将軍となった徳川家康により江戸幕府が創設され、時代は群雄割拠の戦国の世から、武家政権が取り仕切る封建国家へと遷り変わ りました。その8年後の1611年(慶長16)に、摂津国能勢(現大阪府豊能郡能勢町)に初代吉田勘兵衛良信翁が誕生します。一般には能勢のお生まれと広 く伝わっていますが、歴史作家の家村耕氏によると、出生は京都亀岡の本梅(ほんめ)で、その後間もなく吉野に移り住んだとのお話でした。

勘兵衛翁が生まれて程なくして、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の時代、家康が二条城で豊臣秀頼と会見し、1615年(元和元年)には大阪夏の陣によって豊臣家 は滅亡します。勘兵衛翁は清和源氏の血筋を継ぎ、戦国大名波多野秀治の一族波多野秀親の孫として生まれました。従兄弟の能勢領主であり、能勢妙見山の開基 でもある能勢頼次公に従って数えで24歳の頃に江戸に移り、日本橋本材木町に木材と石材の店を始めるようになります。そして、30代半ばで江戸城修築の御 用木材を承り、諸侯お出入りの豪商にのし上ったと、勘兵衛翁が建立した常清寺所蔵の資料には記されています。家を壊して延焼を防ぐ当時の防災手法、寺社仏 閣の建築ブーム、1649年に発生した慶安の大地震などで、材木商のニーズは高まる一方だったのです。

さて、勘兵衛翁は農業経営にも人並み優れた才覚を発揮し、1656年(明暦2)に幕府の許可を得て、現在の神奈川県横浜市中区および南区に跨る地域の新田 開発に乗り出します。入り海だった広大な場所を埋め立てることは困難を極めましたが、1667年(寛文7)に約120ヘクタールに及ぶ田畑を拓くことを成 し遂げました。その新田は、1669年(寛文9)4代将軍徳川家綱より『吉田新田』と公認され、勘兵衛翁は苗字帯刀を許されました。
横浜市内の小学校高学年で使用されている社会科の副読本には、“横浜の礎”勘兵衛翁のことが詳細に紹介されており、横浜の実業家で明治初期に横浜港の埋め 立て事業を手掛けた“横浜の父”高島嘉右衛門翁、保土ヶ谷宿の三役(本陣、名主、問屋)を務めた名跡苅部清兵衛翁らと共に“横浜三名士”に数えられていま す。

また勘兵衛翁は、新田開発の成功後には、地域の氏神として1673年(寛文13)に社殿を創設(現 日枝神社)し、熱心な法華経信仰者でもあったので、身延山久遠寺二十九世日莚法主に、先に干拓した千住中村の地(東京荒川区)に寄進する旨を申し出て、諸 堂宇を建立(運千山自性寺、後の運千山真養寺)しました。

横浜市南区の栄玉山常清寺(画像)は、勘兵衛翁が自性院日身上人(運千山真養寺開山)を招いて建立されました。新田守護の為、身延山第三十一世一円院日脱法主を開山として創建され、身延山久遠寺の直末の寺院です。故に明治以前は、吉田家関係者以外檀信徒入信を許可せず、吉田 家菩提寺として供養の拠点であったそうです。

能勢の地に再び領地を回復せられ、長年の悲願を達成された能勢頼次公。そして、ほぼ時を同じうして生を受け、能勢吉野の山里で20年余りを過ごされた吉田勘兵衛翁。
血縁関係にあるお二人の波乱の人生において、為政者と商人という立場こそ違え、お題目の精神がお二人の背骨にはすっと通っていて、各々の精神的支柱、行動の指針になっていたことは、歴史を具に顧みても間違いのないところでしょう。

1686年(貞享3)7月26日、吉田勘兵衛翁死去。

法 号           運千院殿常清日凉大居士

辞世の句
「妙なるや法の蓮の華の香を しばしとどめて浮世経にけり」

【参考資料】
常清寺HP
はまれぽ.com 「今年は、初代吉田勘兵衛 生誕400年」
南吉田町内会HP
篠山市HP篠山の民話集
Wikipedia
能勢史 等
家村耕氏より聞き取り

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