9月12日は、龍口法難会といいます。四大法難(伊豆法難 ・小松原法難 ・松葉谷法難・龍口法難)の一つで、日蓮宗の聖日となっています。
霊跡本山である龍口寺(藤沢市片瀬)では、9月11日・12日・13日を『龍口法難会』と定め、毎年大法要が営まれます。龍口法難御征当の12日には勇壮な万灯が奉安され、難除けのぼたもちがまかれるなど、門前は大変な賑わいになります。
文永8年(1271年)9月12日午後4時頃、鎌倉松葉谷のご草庵におられた日蓮聖人は侍所所司平頼綱等の手により捕らえられます。翌13日子丑の刻(午前2時頃)には裸馬に乗せられ刑場へと引かれ、敷皮石(皮を敷いた座布団状の石)に座らされました。そしてあわや斬首になるその時でした。
“江ノ島の方向から月の様に光った物が鞠(まり)の様に東南の方から西北の方角へ光り渡った。十二日の夜明け前の暗がりで人の顔を見えなかったが、この光り物の為、月夜の様になり人々の顔も皆見えた。太刀取りは目がくらんで倒れ臥(ふ)し、兵士共は怖(おそ)れて頚を斬る気を失い一町ばかり走り逃げ、ある者は馬から下りてかしこまり、ある者は馬の上でうずくまっている。
日蓮が「どうして殿方、これほど大罪のある召人(めしうど)から遠のくのか。近くへ寄って来られよ。寄って来られよ。」と声高に呼びかけたが急ぎ寄る者もない。「こうしていて夜が明けてしまったならばどうするのか。頚を斬るならば早く斬れ。夜が明けてしまえば見苦しかろう」と勧めたけれども何の返事もなかった。”
龍口法難から5年後、佐渡から戻られ身延に入られた後、建治2年(1276年)55歳で認められた『種種御振舞御書』には、当時の様子がこのように記されています。
龍の口刑場での処刑は中止となりましたが、その後には極寒の佐渡へ配流(10月10日)、門弟にも徹底的な弾圧が加えられ、日蓮門下は潰滅的な打撃を受けました。
因みに、突如の処刑中止となった刑場では、鎌倉に向かう早馬や幕府からのが伝令が、そこを流れる河川の辺りで行き合ったことから、その川は「行合川」(ゆきあいがわ)と呼ばれています。
以下、龍口寺門前に記された当地の案内文を紹介します。
当地は鎌倉幕府時代の刑場跡である。
幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、腰越、龍の口に於いて斬首との記録が多く見られる。
奈良時代の僧・泰澄、一説には鎌倉時代の僧・文覚が龍口明神に法味を供養したところ、国に背く悪人が出来した時は首を斬り社頭に掛けよ、との神託を受けた。これによって龍の口が処刑場になったと旧記にある。
文永八年(一二七一)九月十三日子丑の刻(午前二時)、日蓮大聖人は『立正安国論』の諫言により、幕府に捕えられ、この刑場・敷皮石(首の座)にすえられた。
しかし処刑の瞬間、時あたかも江の島の方より満月の如き光ものが飛び来りて、執行人共は眼がくらみ、この奇瑞の為、ついに大聖人の首を斬ることが出来なかった。
かくして此処は日蓮大聖人龍口法難の霊場であり、世の安寧の為に身命を賭けられた寂光土と称される所以である。
霊跡本山 寂光山 龍口寺