【本吉郡南三陸町】蒼茫と暮れかけて…

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

昨年末に予定していた単独での支援活動であったが、諸般の事情により年明け早々のボラバス参加に変更となった。

今回お世話になったボラバスは、過去に何度も利用しており顔見知りも多かった。現地での活動の内容は違っても、復興に対する個々の思いや覚悟を伺うことが出来てとても心強かった。
初日の午前中に、南三陸町の漁港の瓦礫撤去作業を行った後、近隣の仮設住宅を訪問しリラクゼーションやリハビリを実施した。最終日に伺った仮設(南三陸町歌津地区)では、私達が到着して程なくして大勢の方が治療に見えた。朝方から雪が降り続き、帰路となる東北道の交通状況が悪化する恐れが懸念された為に、活動時間が二転三転したが、結局午前9時から11時半頃までの間に、今回希望された全ての方の施療が完了した。
震災以降筋力が落ちて膝の痛みがぶり返した方、避難の際に転んで肩関節を脱臼し、離れた病院のリハビリにも通い切れず痛みに耐えて生活されている方、瓦礫撤去などの力仕事が原因で首の痛みに悩まされている方などなど…身体の不調を訴えられる方が多かった。
その中に、息子さんとお孫さんを津波で亡くされたご婦人がいらした。
「暫く何も受けつけなかったから、骨と皮だけになってしまったのよ。」
施療が半ばに差し掛かった時、ポツリポツリと身の上を語られた。少し話されては沈黙、そしてまた少し口を開くと沈黙。
短いセンテンスの中に凝縮された深い思いが、次に口を衝く言葉を阻んでいるようだった。そうかと言って、避難所生活や仮設に入居して間もない頃の、訴えかけるような激しさとは違って聞こえた。
澱みのない淡々とした口調で、焼け焦げた心の奥底から絞り出される慟哭ではなかった。
「もう、2年になるものね…」
くっきりと浮き出た鎖骨は、当時の憔悴を察するに十分だった。
「朝早くからよく来て下さいましたね。話し難いことを、私にお話して下さってありがとうございます。」
私はそう挨拶すると、順々に施療を続けながら前回訪問したお婆ちゃんの言葉を思い出していた。
「自分自身では深く思い悩んでいないようでも、日々の生活の中で、不意に“死”が頭を過ることがある。」
震災以来、延べ80数回の活動実績を数える移動傾聴喫茶「カフェ・デ・モンク」の主催者金田諦應師。師の言葉が心に重く響く。
「自分の気持ちを最終的に何処に持って行ったら良いのかは、私たちより毎日悩み考えているご本人が一番よく分かっていらっしゃる。我々はタイミングを見計らって、最後にそっと一押ししてあげるのだ。ただ、その機会を見極めるためには、継続的な接触が必要だ。」
蒼茫と暮れかけて来た海を、気仙沼の岩井崎から眺めながら、そんなことをつらつらと考えていた。
そして、我が国の行く末について…
或る識者は、「現在の日本経済は、高度経済成長やバブル景気を経て、ひとつの成熟期を迎えている。日本人はそれをよくよく理解した上で、それに沿うた大人の立ち振る舞いをしなくてはならないのに、未だ過去の幻想にとらわれ、更なる経済成長を渇望している。」と分析している。
敗戦後に飛躍的躍進を遂げた日本は、厳しい制裁を受けながらもアジア列国で一目おかれる存在にまで上り詰めた。それと同時に国際競争力に常に晒され、「貪欲」「我愛」という終わりなき迷路に迷い込んでしまったように思えてならない。
「原発を止めたら、国民の生活が立ち行かない。」「国際競争力の低下は、隣国の脅威に晒されることになる。」「一国だけの思惑で、ヒステリックに脱原発を唱えること自体が滑稽だ。」
想定されるリスクの深刻度を無視はしない。ただ、「原発ありき」の立ち位置が変わらぬ以上、核心に近づく議論にもたどり着けない。

この記事は最終更新日から1年以上経過しています。
記事の内容やリンク先については現在と状況が異なる場合がありますのでご注意ください。

一覧へ