3月11日(土)、蓮華寺鬼子母神講・立正婦人会の記念すべき第1回合同総会が開かれました。
当寺には蓮華寺直属の鬼子母神講と立正婦人会、そして常照庵(野木庵)を拠点にして独自の信行活動を展開している宿野鬼子母神講というお講があります。残念ながら蓮華寺鬼子母神講は、講員の高齢化に伴い10年程前に休講となっています。宿野鬼子母神講は、蓮華寺の檀徒だけで構成されており、お寺からも助成を行っているのですが、常照庵の維持管理と地域の集会所的な役割も担っていたので、毎月1回10名ほどの講員が庵に集まり、活動内容も講員で決めながら単立のような形で活動しています。
慶長年間に旗本能勢頼次公が、京都本山本満寺寂照院日乾上人の教化によって日蓮宗に帰依し、領内全土を日蓮宗に改宗されました。頼次公の預り領(天領地)だったこの西郷にも日乾上人の高弟本行院日運上人(倉垣妙法寺中興)が布教の歩みを進められ、浄土宗の光明寺を日蓮宗に改宗させ、倉垣の妙法に続く蓮華寺として本満寺15世妙寂院日深上人を勧請開山(日運上人は二祖)とし、元和2年(1616)2月に当寺が開創されたと伝えられます。
そして、村役人などの当時の有力者が次々と檀家となり、「一村の菩提寺」が通例の当地方にあって蓮華寺の檀信徒は西郷全域にわたって広く分布している訳です。そのような経緯もあり、同じ町内でも名月峠を挟んで西と東ではお寺を護持するシステムに違いがあります。当寺の総代さんが東のお寺の倍の人数が選ばれるのも、菩提寺から離れた宿野地区の鬼子母神講が独自の進化を遂げたこともそういった理由からなのです。
昨年、宿野講中 (鬼子母神講) と婦人会それぞれのお仲間が、70代前半でご逝去されました。お二人ともムードメーカーで中心的な役割を担っておられただけに、「まさか?!」という思いと動揺が皆に広がりました。お寺の行事だけではなく、管区行事にも熱心に参加されて下さっていた方々です。
婦人会はもとより、講中の集まりにも出向き、それぞれに追善のご回向をさせて頂きました。それがきっかけで、「年度の終わりに一堂に会して法味を言上し、物故者を偲びましょう。」という提案をさせて頂いたのです。
宿野講中にも、ご高齢の方ばかりでお講を支える忍苦の時期がありましたが、今では若い講員も増え、婦人会との同世代のつながりも生まれました。講中から6名、婦人会は19名の参加者は、物故者追善の法要並びに東日本大震災御正当の七回忌法要を本堂で修し、その後大広間にて自己紹介の後、団扇太鼓を手に歌題目と唱題の習練を60分間行いました。
25名のお仲間で心を込めて打った団扇太鼓の妙音が、我々を支えて下さったご功労のお二人にお届け出来たものと確信しております。
立ち渡る
身の浮き雲も晴れぬべし
妙の御法の鷲の山風
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経