客は少し態度をやわらげて次のように言いました。およその趣旨 は分かりました。しかし京都から鎌倉にかけて、仏教界には立派な高僧がいますが、いまだ朝廷や幕府に進言した人はいません。貴僧が身分をわきまえず、上奏 (じょうそう)した事は道理にはずれた行為というべきで、賛成出来ません。
主人は答えて言います。私は賎(いや)しい身分で力不足の者ですが、ありがたい事に大乗の教えを学んでいます。青蝿(あおばえ)も駿馬(しゅんめ)の尾 にとまっていれば労せずして万里の遠くへ行く事ができます。そのように私は釈尊の子としてこの世に生まれ、諸経の王である法華経を学び、信仰の中心におい て仕(つか)えています。それゆえに、身分が賎(いや)しかろうとも、法華経を学んでいる者として、正しい仏法が衰えていくのを見て、悲しまないではいら れません。何とかして真実の仏法を建てたいと考えるのは当然ではないでしょうか。
その上『大般涅槃経(だいはつねはんきょう)』には「立派な僧であっても、正法を破る者を見て、とがめもせず、追い出そうとも、罪を正そうとしない者は、その人は仏法の怨敵(おんてき)である」と誡(いまし)められています。
また元仁年間には延暦寺と興福寺から念仏禁止の奏上(そうじょう)が上程(じょうてい)されて、朝廷からは勅宣(みことのりせん)、幕府からは御教書 (みきょうじょ)が下されています。このような前例をもってしても、なお上奏(じょうそう)した者がいないといえるでしょうか。