1月21日、御題目講「自分の心に一本筋を立てて生きること」

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こんにちは、副住職です。
先日21日に当山妙恵寺の初御題目講を奉行いたしました。
今年初ということで、多くの皆様にご参詣いただきまして、誠にありがとうございました。
その際の住職の法話をまとめましたので、ご覧いただければと思います。

 
今月の聖語は『異体同心事』という御遺文の一節です。
皆様もどこかで耳にしたことがあるかもしれません。
「百人千人なれども一つ心なれば必ず事を成ず」に関してお話しいたします。
このお手紙が書かれたのは、文永11年8月と伝えられています(異説もあります)。
日蓮聖人の佐渡流罪赦免は文永11年3月で、一旦鎌倉に戻られた後、5月に身延へ入られます。ですから、身延に入られて3か月ころの御手紙と考えられます。
皆様ご承知の通り、日蓮聖人は数多くの法難に遭われてきました。
日蓮聖人の弟子や信徒たちもまた、さまざまな迫害を受けることがありました。そうした人たちに対して、どんなことに遭遇しても、心を一つにしなさいという激励の内容がつづられています。


 
その中で「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶う事なし」というフレーズが出てまいります。
「同体異心」というのは、体が一つでも心がバラバラという、一人の人格体であったとしても、精神面が統合されていない状態もありますが、これではいけませんね。
これに対して「異体同心」であること。すなわち複数の人間が寄り合えば、体は異っていても、心を一つに合わせていくことの大切さを説かれたのが「異体同心」という教えであります。
 
日蓮聖人はよく古代中国の歴史を話題にされますが、紀元前11世紀の時代の話です。
殷(いん)の紂王(ちゅうおう)と、周(しゅう)の武王(ぶおう)という王様がおりました。
紂王は殷の最後の国王であり、この殷を倒したのが周の武王でありました。
殷の紂王は、暴虐な悪政をおこなった王とされ、そのため人民から信頼されていない状況であったと思われます。
国王という存在は世俗の最高権力者ですから、国民が逆らうことは許されません。しかしながら、国民から慕われるような人徳を備えていなければ、求心力を失ってしまいます。国のトップに立つ者が、独裁的に権力を乱用すれば、かえって国を亡ぼすこともあるという典型として、特に歴史に名を残したのがこの殷の紂王であります。
殷の紂王は非常に大きな部隊を有し、70万騎であったといいます。
これに対して周の武王の部隊は800人であったといいます。
人数だけで比べると、70万騎に対して800人では、多勢に無勢ですね。
ところが、殷の部隊は人数が多くても、心がバラバラで、それぞれが違った方向を向いていたので、お互いの力を削り取ってしまって、いざという時に部隊が機能しなかったのだと思われます。
その結果、殷の紂王は周の武王に敗れてしまった。
周の武王のほうは、部族国家から新しい王朝を目指していた王様ですから、おそらく国民の信頼を受けていたのでしょう。
昨年の大河ドラマ「真田丸」でも、人数は少なくても、知恵を働かせて心を一つにして戦い、大名たちと対等に渡り合ったというエピソードがありましたね。
そのように、徳のあるリーダーを中心に、良い国を作り上げようという忠誠心かあったために、一致団結することができたものと考えられます。
 
「異体同心なれば万事を成じ、同体異心なれば諸事叶う事なし、と申す事は、外典三千余巻(げてんさんぜんよかん)に定まりて候。殷の紂王は、七十万騎なれども、同体異心なればいくさにまけぬ。周の武王は、八百人なれども、異体同心なればかちぬ。一人の心なれども、二つの心あれば、其の心たがいて成ずる事なし。百人・千人なれども、一つ心なれば必ず事を成ず。」
この後半部分の「一人の心なれども、二つの心あれば、其の心たがいて成ずる事なし。」とは、日蓮聖人が信仰のあり方を説かれた部分になります。
自分一人の体というのは、あくまでも一つです。けれども自分の中で、二心(ふたごころ)があると失敗するということです。
たとえば、法華経・御題目を信じますと言いながら、お題目だけでは心もとないので、お念仏も唱えますというように、信仰が揺らいだり、節操のない状態が「二つの心」ということでありましょう。
なぜ心が二つになるかと言えば、物事の捉え方が自己中心的で、いつも自分に都合の良い部分を取ろうとするからです。ある時にはこちらを信じ、またある時にはあちらを信じる、というように、ご都合主義的な考え方に立ってしまうと、自分の心が常に揺れ動いてしまうのです。自分の心に一本の筋が通っていないと、精神的に安定しません。
そのことを日蓮聖人は「一人の心なれども、二つの心あれば、其の心たがいて成ずる事なし」といわれたのです。「あれかこれか」ではなくて、「あれもこれも」となると、どっちつかずになってしまい、二兎追うものは一兎も得ずということになってしまうわけであります。
そうした状態が「同体異心」だと言われるのです。
一人の心の中でも二つの心が揺れ動いてしまう、それでは何も達成することはできないのだと説かれているのです。
ところで、よく夫婦や恋人同士は「一心同体」だと言われることがありますね。「同体」といっても、身体そのものはお互いに違います。似たもの夫婦は体形も似てくると言いますが、それは食生活の問題でしょう(笑)。
男女の間で、体も心も一つに結ばれていると思いたいけれども、それはあくまでも美しい誤解である場合が多いですね。お互いの感じ方や考え方が違うのが普通です。特に男と女とは根本的に違う面が多いわけですが、一緒に生活をしていく中で、次第に心が通じ合うという経験を重ねていくものでしょう。
 
「以心伝心」という言葉がありますね。心から心へ、ハートtoハートというと、カッコいい感じがしますが、これも実は仏教用語です。
仏教のなかでも、禅宗系の教えで重視される考え方です。
こういうエピソードがあります。
ある日、お釈迦様が説法をなさっていたとき、綺麗な花が咲いていたので、それをつまんでニッコリ微笑んだとき、すぐに反応して微笑み返しをしたのが、摩訶迦葉(まかかしょう)というお弟子さんだったといわれます。お釈迦様は沈黙の中に教えを説かれたとされ、そのとき摩訶迦葉に真理が直接伝えられたというのが「以心伝心」のルーツです。
仏教の奥深い真理は、言葉では表現できないというのが「以心伝心」の本来の意味なのです。
まぁ、私たちにもそういう不思議な経験ってありますよね?
例えば、ちょうど今、あの人に電話しようと思ったらその人から電話がかかってきたとか。
そうした時に、心が通じ合ったと感じることがあります。
しかしながら、仏教の教えや真理が、言葉を介せずに伝わるということについては、日蓮聖人は幻想であると批判されます。
たしかに何かが通じ合うということはあるかもしれないけれども、仏教の真理は言葉では説明できないとか、論理化できないというのは、眉唾モノであると。
禅宗では、お釈迦様から摩訶迦葉へと真理が伝えられ、さらに師匠から弟子へ、言語化できない真理が、人から人へ脈々と伝えられたとする系譜を重要視するのです。
たしかに「以心伝心」というのは日本人が好きな言葉です。
けれども、日蓮聖人はあくまでも言葉を介さなければ真理は伝わらないとおっしゃるのであります。
 
話が少しずれましたが、「異体同心」というのは、同じ心をただ幻想や思い込みで共有するのではなく、きちんと言葉を尽くして、お互いの違いや価値観を認め合える心をもつということではないでしょうか。
仏教の教え、日蓮聖人のおっしゃることには、我々の日常生活において、様々な困難や葛藤を経験しながら、それを乗り越えて生きていく上で、拠り所となる教えがたくさんあります。
そのうちの一つが今回の「異体同心」でありました。
「異体同心」とはどういうことなのか、皆様それぞれのお立場でお考えいただきたいと存じます。
 
御題目を唱えるということ
さて、日蓮宗では御題目を唱えることが信行の中心とされますが、ただ御題目一辺倒でよいのでしょうか?たとえば、神社にお詣りしたり、他の宗派のお寺にお詣りしてもいいのでしょうか?と聞かれることがあります。
そんな時、私はできるだけ相手の心をくみ取りながら、「良いと思いますよ」と答えるようにしています。
いっぽう、それは絶対にダメだという指導者もいるでしょう。それでは純粋な信仰にならないと。先程のように「二心(ふたごころ)」があっては不純な信仰になってしまうからと…。
私が言いたいのは、自分の心の中にちゃんと一本の筋を通した上で、他の神社やお寺にも敬意を表するという形でお詣りすれば良いということです。
ですから、私はどこにお詣りしても、声は出さずとも心の中でいつも南無妙法蓮華経とお唱えするようにしています。
法華経というのは、扇の要(かなめ)、山の頂上、大王などに喩えられ、お釈迦様が説かれた数多くの経典の中で頂点に位置する教えであります。
山の頂上に立つと、全体がよく見渡せますね。
人間はそれぞれ顔かたちが違いますし、感受性や願望も異なります。ですから、それに応じて仏さまの教えも沢山あるわけです。
日本古来の神々も大事な存在です。日本人は大自然の見えないパワーに畏敬の念をもって、神様として崇めることによって、慎ましく謙虚に生きる心を大切に育んできました。そうした形で日本人の道徳心を支えてきたわけですから、神様はとても大事ですよね。
 
そういう日本古来の神様を頭ごなしに否定して、拝んではいけないと切り捨てるのはおかしいことではないでしょうか。
法華経の精神というのは、みんな個性が違うけれども、それぞれの存在には必ず意味があるんだという視点に立つこと、そして自分の中できちんと筋道を通すこと、それこそが法華経の一仏乗の教えの本質なのです。
ですから、ひとりよがりに、法華経だけ、御題目だけ、自分だけが正しい、となるとそれは独善ですね。
そんな自己主張ばかりでは、他者と関われませんね。
皆様も、二心でお詣りするのではなく、自分の中に一本筋を通して、御題目を心の中心に据えた上で、バランス感覚を持ち合わせながら、それぞれの神様や仏様に対して手を合わせることは何も悪いことではありません。
 
信仰をもって生きるというのは、その点がなかなか難しいわけです。御題目一辺倒で頑なに貫き通すことが正しい信仰だと思っている人が日蓮宗の中には多いようですが、独りよがりになってしまうと、周囲が見えなくなって信仰の落とし穴に陥る危険性があります。
法華経に説かれる一仏乗とは、あくまでも個別的な違いを認め合いながら、それぞれの役割を自覚的に果たすことによって、全体的なバランスを維持することではないかと私は考えております。
各自の個性と役割を生かし合うことによって、「みんなちがって、みんないい」と感じることができるかどうか。それが一番大事なことではないでしょうか。
そうしたバランス感覚をもつためには、自分の中に一本筋が通っていることが必要となります。
筋の通った価値観を持たないと、表面的なことに左右されて、人を羨(うらや)んだり、嫉(ねた)んだりして、自分を見失いがちです。
私たちは、自分自身の心を根底から支える一本筋を、法華経・御題目から常にいただいているのです。
その一本筋、もしくは心の中心軸を失うと、二心になってしまうのです。
皆様が毎月こうしてお寺に足を運んでお参りされ、法話を聴聞されるのは、心の中心軸を確認し、ブレないようにするためなんだと、あらためてご理解いただければ幸いに存じます。
 
以上が住職の法話でした。
 

「異体同心」
私が身延山での修行の時も、先生から修行僧一同「異体同心」になって修行に取り組め!
と言われたのを思い出しました。
みんな人格は違えども、一つの方向に向かって一心に修行をした日々は今でも忘れられない経験となっております。
心というのは、揺るぎやすく、移ろいやすいものですが、そんな自分の心に常に一本筋を立てて生きていくということの大切さを改めて感じることができました。
 
さて来月は、2月3日の14時から当山妙恵寺の節分会を奉行いたします。
節分星祭り祈祷会、住職からの九星別の運勢のお話、そして豆まき&福引き大会を行います。
節分の祈祷会、九星気学のお話、豆まき、福引き、少しでも興味がございましたら、お電話やメールにてお問い合わせください。どなたさまでもご参加いただけます。
内容盛りだくさんとなっておりますので、皆様のお越しを心よりお待ちしております。
 
そして、2月19日は14時から通常の御題目講を行いますので、そちらもお忘れなきようによろしくお願い致します。
それでは、寒い日が続きますので、皆様体調を崩しませぬようにご祈念申し上げております。
合掌
裕真。

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