立正安国・お題目結縁運動 いのちに合掌

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七面山 妙恵寺

【Shichimenzan Myokeiji】

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寺ブログ

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妙恵寺施餓鬼法要・お盆法話「いのちの源」

こんにちは、副住職です。
去る7月16日、当山妙恵寺のお盆のお施餓鬼法要を有縁のお上人様方と共に奉行いたしました。
檀信徒の皆様も大勢お越し下さり、誠にありがとうございました。
皆様と共にお唱えする御題目の声により、私自身の中にもある餓鬼の心が洗われるような気持ちでございました。
お施餓鬼法要の後、住職よりお盆にまつわる法話がございました。
オフショット写真と共にまとめましたので、是非ご覧ください。

皆様、お暑い中をご参詣いただきましてありがとうございます。
本日はこうして皆様と共にお施餓鬼の法要を営むことができました。
裕真と修行の仲間たち、私にとって教え子たちがたくましく成長していることを、たいへん嬉しく感じております。若い人はこれからどんどん伸びていきますので、期待をもって応援していただければ幸いです。
 
さて、毎年『盂蘭盆御書』の話をしておりますが、日蓮宗新聞の「今月の聖語」になっております「我が身仏になるのみならず、父母仏になり給う。」という一節を中心にお話しします。
妙恵寺新聞26号の中にも「お盆って何ですか?」と簡単にご案内がありますので、後ほどご覧下さい。
 
お釈迦様のお弟子の一人に、目連尊者という方がいらっしゃいました。
お釈迦様には十大弟子とされる方々がいらっしゃいますが、たとえば法華経の方便品に登場する舎利弗は「智慧第一」、また摩訶迦葉は「頭陀第一」というように、お弟子方の優れた面を表現して、それぞれの修行にかけてはナンバーワンということで、「○○第一」と称されます。
その中でも、「神通第一」と言われたのが目連尊者です。神通力というのは、今でいう超能力です。普通の人が見えないものが見えてしまう。
もっと言えば魂の世界、我々の現象世界と背中合わせになっているのが魂の世界であるということを時々お話しますけれど、そうした世界は普通見ることはできません。霊感のある方が時々そういう魂の世界を見てしまうということがありますが、普通の人には見ることはできません。
目連尊者は厳しい修行を積み重ねることによって、魂の世界を見ることのできる神通力を体得したのです。
目連尊者にも当然のことですがご両親がいらっしゃって、お母様は青提女(しょうだいにょ)というお名前でしたが、お母様が亡くなられました。おそらく目連尊者とってはとても優しい母親だったのでしょう。
そのお母様の魂が死後どのような世界に行かれたのかを心配して、ある時、体得した神通力で魂の世界を探してみました。
天上界から人間界を探しても見当たらず、畜生界も探し、修羅界も探しましたが、どこにもお母様の姿がないので、もしやと思って餓鬼界を探したところ、餓鬼の姿に変わり果てたお母様を見つけてしまったという話です。
なぜ、お母様がそのような餓鬼界に堕ちてしまったのか、それはお経の表現によれば「慳貪(けんどん)」の失(とが)によるとされます。
慳貪とは、物惜しみの心のことですが、わかりやすく言えば、他人に対する施しをしようとせず、いつも自分が得をすることばかりを考えている、そうした心です。
人間には誰にも欲望がありますので、なかなかコントロールすることは難しいですね。いつも自分のことを最優先に考えて、まわりを思いやらずに生きてしまうと、餓鬼道に堕ちるんだと言われています。
『餓鬼草子』などによりますと、首と手足が針金のように細くて、お腹だけがぷっくり膨れた姿として描かれます。欲望が肥大化すればするほど、満足が得られない状態を餓鬼というのです。
よく子どもたちのことを「ガキ」というのは、自分の欲望をうまくコントロールできない状態だからです。
そんな餓鬼道に堕ちているお母様をみつけてしまった目連尊者は、母が「自分の息子が助けに来てくれた」と思って手を差し伸べるので、食べ物を差し出しますと、それがパッと火に変わり、水をかけると油となってしまって、お母様に食べ物を施すことができません。
そういう状態を見て目連尊者はあわててお釈迦様のところへ行き、事の次第を報告して、「餓鬼の世界で苦しんでいる母に対して、私は何もすることができないのですが、どうしたらいいでしょうか」と尋ねました。
するとお釈迦様は、「そうか、そなたの母は餓鬼道に堕ちてしまったか。そなたの母の他にも誰かいなかったか?」と問われ、目連尊者は、「はい、亡者が沢山おりましたが、自分は母のことだけで精一杯でした」と答えます。
お釈迦様は、「餓鬼道というのは、生前中に自分は満ち足りていたのに、他人と分かち合うことはしなかったために堕ちるのだ。」とおっしゃいます。
母親というのは、子どもを育てるために、時には鬼のようになることもありますね。自分の子どもだけにはひもじい思いをさせたくない、たくさん食べさせてあげたい、だから、もしかしたら、他人の分を奪ったかもしれない。
目連尊者の家庭は裕福で、子供には優しい母親だったのでしょうが、他人には辛く当たったかもしれません。子どもの知らない世界があったのかもしれません。
子どもを育てるために、他人様よりも余分に、という母心。もしそれが餓鬼道におちてしまった原因の一つだとすれば申し訳ない。なんとしてでも母を救いたいと、目連尊者は願い出ます。
そこでお釈迦様は、「そなたの他にも大勢の亡者がいたということであれば、自分の母親だけを救おうとしてはダメだ。できるだけ多くの餓鬼の亡者に対する供養を心掛けなさい」と教えられます。
そして具体的には、インドの雨季の時期、4月から7月の3ヶ月間、夏の安居(あんご)には外に出ずに精舎内で修行します。それが明けるのが7月15日なので、その日にできるだけ多くのお坊さんを招いて、飲食のご供養をしなさい。それが餓鬼道に堕ちた亡者への供養となり、余慶の功徳によってそなたの母も救われるであろう、と。
そのように教えられた目連尊者はその通りに実践したところ、やがてお母様は天上界に生まれ変わることができたというお話です。
餓鬼というのは、自分が満ち足りているはずなのに必要以上に欲しがる心の状態です。人間は本来、他人と支え合い、分かち合って生きていかなければならないのです。
「分ければ余る、奪えば足りない」ということもいわれますね。
分かち合う心を見失って、自分さえよければ良いという考えは、私たちの中にもありますね。
自分の心を見つめることほど難しいことはない。わかっているつもりだけど、一番わからないのが自分自身の心かもしれません。だからこそ、自己の心を見つめる「鏡」を持つ必要があるのです。

ところで、仏教でいう餓鬼とか地獄というのはどういう世界なのでしょうか?
これは先代がよく話していたことですが、地獄のパビリオンと天国のパビリオンという話があります。
地獄のパビリオンは、大きなホテルの宴会場のようなところで、バイキング形式の豪華な食事が並んでいます。そこにはナイフとフォークがありますが、自分の手に括り付けられていて、なおかつ肘が真っ直ぐに固定されているので、自分の食べたいものを口に運ぶことができません。
それでもみんな自分の好きな物に群がり、我先に食べようとして、放り上げたりする人もいますが、なかなか自分の口に入れることができません。食べ物が散乱して顔も体もグチャグチャになります。
下に落ちたものを奪い合い、邪魔する人をフォークで刺す人もいます。
このように自分が食べたいという気持ちばかりで、争い合っているために、かえって満足に食べられない状態、それが地獄とか餓鬼という世界なのです。
一方、天国のパビリオンはどうかと言いますと、実は条件は地獄のパビリオンと同じなのです。
豪華な食事が並んでいて、みんなナイフとフオークが手に括り付けられていて、肘も固定されています。
どこが違うのか? 察しの良い方は、もうお分かりですね。
そこではまず、自分が食べたいものより、あなたは何を食べたいですか?と聞いて、それを取ってあげる。今度は、私にこれを取ってもらえますか。はい、どうぞ。それだけの違いなのです。
自分の欲望を優先すると、かえって食べられないのですが、他の人と助け合えば食べることができる。
それが本来の人間姿であって、地獄と天国というのは、どこか別の世界に存在するわけではないのです。
同じ条件の中で、人間たちがどういう心根をもって生きていくか?という違いなのです。
自分のことよりも相手のことを思いやる気持ちがあれば、お互いに食べ物をムダにすることなく、口に入れることができるわけです。
この話は、師匠から聞いた話ですので、話のネタの出所は改めて調べてみたいと思いますが、私どもは、自分さえよければ良いと考えると、かえって自分の首を絞めることになります。
餓鬼道に堕ちたお母様というのは、けっして他人事ではないわけです。
私たちの心の中にも、餓鬼は潜んでいます。だからこそ、他者への施しを心がけて実践しましょうというのが施餓鬼供養の意義なのです。

さて、目連尊者は法華経の教えによって仏になったといわれています。そして「上七代、下七代」と、自分の父母、祖父母、十代前まで遡ると1024人になります。さらに、「上無量生、下無量生」と、三十代前まで遡ると、実に十億人を超えます。
そうした命の営みをつないでくださった人々を救うことになると説かれているのです。
目連尊者は法華経の教えを身と心に染みて実践することによって、仏になったとされています。
自分だけが仏になるのではありません。法華経という教えは一人だけが仏になるとは説いていません。みんながもろともに仏になる道が説かれるのです。
では、父も母も「仏になる」とはどういうことでしょうか?
 
日本ではもともと死んだ人のことを「ホトケ」と言いました。
仏教の「仏」とは、インドの言葉のブッダを漢訳した「仏陀」のことです。
日本では「仏」という漢字を「ほとけ」と読ませているからややこしいのです。
中国から漢字が来る前までは、日本に文字はなかった。ご承知のように、ひらがなやカタカナも漢字に基づいていますね。言葉はありましたが、文字はなかったわけです。
仏教でいう「仏(ほとけ)」は「仏陀」のことで、めざめた人、さとった人(覚者)という意味ですが、古代日本語の「ホトケ」とは亡くなった人のことでした。
法華経では、すべての人間は「仏」になると説かれますが、それはもちろん、真理にめざめた人という意味です。
仏教において「仏になる」というのは、日常生活の営みの中で、さまざまな経験を通して気づくこと、めざめること、そしてその積み重ねによって、さとること。そのプロセスが大事なのです。
成仏(仏に成る)ということをゴールのように思っている人が多いでしょうが、実は仏になる道、すなわち仏道のプロセスを説いているのが仏教なのです。
常に仏になる道を歩んでいるという意識をもって、努力目標を掲げて精進していくことが大事です。
具体的な修行の徳目としては、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)があります。六波羅蜜については、いつもお彼岸の時にお話していますね。波羅蜜(パーラミター)とは「到彼岸」のことです。
法華経には生きとし生けるもの(一切衆生)は魂のネットワークが繋がっていて、あらゆる存在と共に仏道を歩んでいくことができると説かれているのです。
そうした真理にめざめることは、誰にもできるんですよ、ということを説いているのがこの法華経の教えなのです
私たちが現実社会に生きているのは、肉体の経験を通して、魂の修行をさせていただくためなのです。魂は肉体に宿ることによって、思い通りにならない経験をする中で、自らが磨かれるわけです。
肉体という制約の中においてこそ、魂の修行ができるのです。
仏になるというのは、この思い通りにはならない現実社会での経験によって、魂が少しずつ磨かれるような仏道修行を積み重ねていくことです。
つまり「仏になる」というのは、けっして死ぬことではなく、生きている間に仏になるための修行を重ねていくことなのです。


 
ところで、少し話がずれるかもしれませんが、夏の時期になりますと雨が極端に降る所と降らない所があって、東京ではいつも渇水が心配されます。けれども横浜はほとんど渇水状態にならないのは何故でしょうか?
横浜の水源地は山梨県の道志村です。富士山の雪解け水が水源なのです。その昔、港町として栄えていた横浜ですが、船に水を貯蔵するのに、横浜の水はとても水質が良くて、世界中に有名となりました。
東京の水がめは利根川水系で、小河内ダムですとか、その上流や周辺に降った雨が主な水源となりますので、いつも渇水の心配があります。
いっぽう横浜は、道志村から水を引いていて、富士山の雪どけ水が水源ですから、涸れることはないわけです。
富士山は冬の間に積もった雪が次第にとけて、火山質の土砂に浸透して、十年以上も濾過されて湧き水となります。静岡県の沼津の近くに柿田川湧水群というのがありますが、一日に100万トンもの水が湧き出ているそうです。
水というのは、生命の源ですよね。人間は水がなければ生きていけませんし、他の生物もみんな同じです。
日蓮聖人のお言葉に「源遠ければ流れ長し、源に水あれば流れ涸れず」という一節があります。
水が私たちの生命の根源だと考えたとき、命のルーツをたどっていって、七代前、十代前とさかのぼっていきますと、確かにそこには命の営みがあったわけです。
そして私たちが今、命のバトンを受け継いでいくことによって、「上七代」と「下七代」がつながります。
それを水の流れに喩えていえば、水源とその水の流れを大事にするということが、私たちの命のルーツである先祖と命の営みをつないでいただいた方々の魂を大事にすることになるわけです。
先祖に対して供養を捧げるということは、水源が涸れないように、環境を整えるという意味にもなるでしょう。またその水を汚さないように、さらにその水を後世に伝えていけるように努力をしながら、魂のバトンを受け渡していくことではないでしょうか。
もし水源を失ってしまうと、私たち自身が枯渇してしまいます。
水の流れのように、脈々と伝えられてきた命の営みに感謝し、人間としていきいきと潤いのある生活を送りながら、その水を独り占めするのではなく、できるだけきれいな水を多くの人に分かち与えていくこと。実はそれこそが「仏になる道」につながるのではないかと私は思います。
日蓮聖人が「我が身だけでなくて、父母も仏になる」とおっしゃったのは、水源を大事にすることを心がけて、また水の流れが滞らないように掃除もして、さらに自分がその水を独り占めせず、分かち合っていくことによって、父母の魂も浄化される、という意味で受けとめますと、納得できるのではないでしょうか。
亡き人への追善供養の意味も、そのような視点で考えてみますと、親や先祖という生命の源に感謝して生きること、それこそが人間にとって最も大切であることに気づかされるのではないでしょうか。
私たちは、そうした心をいつでも持っていたいわけですが、すぐに忘れてしまいます。だからこそ、こうして毎年の施餓鬼供養で、そのことを思い出す必要があるんだと、感じとっていただければ幸いに存じます。

以上が、住職の法話でございました。
このお盆という季節をきっかけに、自らのルーツ、根源であるご先祖様に感謝の御心を捧げることが大切ですね。
 
来月の御題目会は8月18日(金)14:00~でございます。
また、8月22日夕方頃には、立正和協会主催の「灯籠流し」が京浜急行日ノ出町駅、旭橋付近にて開催されます。
参加ご希望の方は、メール等にてお気軽にお問い合わせください。
皆様のお越しを心よりお待ちしております。


合掌
裕真。

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