6月19日、御題目講「魂の修行」

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こんにちは、副住職です。
去る6月19日に奉行いたしました妙恵寺御題目講での住職の法話をアップいたします。
是非ご覧ください。
 
皆様、今月も当山の御題目講にようこそご参詣下さいました。
梅雨に入って、昨日はずいぶん雨が降りましたけれど、今日は幸いにしてお天気に恵まれて、お詣り日和になりましたね。
先月も申し上げましたが、副住職の裕真が6月1日から半年間、千葉県松戸の本土寺に開設されている日蓮宗布教研修所に入所しております。
どのような修行をしているかは、今月の妙恵寺新聞第25号に紹介してありますので、そちらを参考にしていただければと思います。
この布教研修所では、お寺に篭りっきりで修行をするのではなく、むしろ色々な所に出かけて実地研修ですとか、行事のお手伝いや法話の実習をしたり、例えば他の宗派のことも勉強するかもしれません。
自ら出向いて行って積極的に吸収するところに特徴がありますので、日蓮宗の信徒に限らず、現代社会の多くの人々に対して、仏様の教えや日蓮聖人の生き方を伝えるための方法について、基礎から応用ができるようになるための研修を重ねているとご理解ください。
先月もお話ししたかと思いますが、お盆の期間は一週間ほど自主研修ということでお休みになります。お盆の棚経も手伝わせますが、7月16日までお休みがとれるということなので、16日は送り火の日ですが、その日に当山のお施餓鬼法要を行いたいと存じます。
その時には研修所で一緒に修行をしているお坊さんを2人ほどお招きしてと・・・そのように考えておりますので、楽しみにしていただけたらと思います。

 
さて、今月の聖語は『撰時抄』という御遺文です。
日蓮聖人の主要な著述である五大部の一つで、身延に入られた翌年の建治元年に書かれました。
先月の『忘持経事』のようにお手紙ではなく、日蓮聖人が後世に残す意図をもって執筆され、門下に託されたと考えられますので、著述に分類されます。
その『撰時抄』の一節、「されば我が弟子等、心みに法華経のごとく身命も惜しまず修行して、此度(このたび)仏法を心みよ」という部分であります。

これは日蓮聖人が弟子・信徒の方々はもとより、後世の人たちに対して法華経のお題目修行に対する心がまえを伝えるために、とても深い思いが込められた一節であると思われます。
皆様ご承知のように、日蓮聖人は法華経に命を捧げる覚悟をもって、文字通りに自らの身命(身体と生命)を惜しまず、法華経修行を全うされました。
私どもにとりまして、誰でも生きている間は自分の身体が大事ですし、命ほど大切なものはありません。
日蓮聖人も「いのち」というものは何にも代えがたい財(たから)であると言われます。
ところが、その一番大切な生命を賭けるほどの覚悟をもって法華経の教えと向き合っていくことが、実は何よりも大切であるとおっしゃるのです。
日蓮聖人が「法華経の行者」としての自覚を持たれたということは、皆様よくご存じですね。
ただし日蓮聖人は、はじめからご自身が「法華経の行者」であるということを自認したり公言されたわけではありません。
法華経の教えを鏡として、自分自身の生き方をきちんと照らし合わせていくことが大事であるとして、日蓮聖人は法華経の中で教主釈尊から要請されている課題に徹底的に応えようとされました。
要請された課題とは、法華経に予言的に記されている法難・迫害・弾圧のことです。
日蓮聖人が度重なる法難を受けられたのは、この法華経に予言された課題を実際に体験することによって、法華経が真実の教えであることを証明するためであったと言えます。
例えば法華経第13章の勧持品には、「数数見擯出(しばしば擯出せられん)」という経文が予言的に示され、日蓮聖人はこれを二度目の流罪である佐渡流罪を体験することによって、この経文を色読(しきどく・身体で読むこと)することができたと受けとめておられます。
佐渡流罪中の極限状態で執筆された『開目抄』には、「我が身、法華経の行者にあらざるか」というフレーズが何度も出てまいります。
これは法華経を鏡として、そこに説かれている課題を自分自身が実行できているかどうかを徹底的に自問自答されているのです。
法華経の予言に自らの生命をかけ、法難という形で現実の場に検証することによって、法華経を活きた教えとしてよみがえらせようとされたのです。
日蓮聖人は法華経が真実の教えであることを証明するために、いわば自らがその実験台となられたわけです。
法華経から要請されている課題は、日蓮聖人だけがクリアすれば良いというわけではありません。
日蓮聖人は、その典型的な模範を示されたのです。
法華経の教えの真髄は、すべての存在がみんな等しく仏と同じさとりの世界に導かれることを説く点にあり、その教えの担い手が必ず登場し、さらに未来に継承する者が続々と出現することが予言されています。
『種種御振舞御書』という御遺文に「日蓮さきがけしたり。わたうども(和党共)二陣三陣つづきて」と呼びかけられているように、日蓮聖人お一人が実践すれば終わったわけではなく、後世の人々がその精神をさらに自覚的に継承していくことが求められているのです。
 
日蓮聖人が「さればわが弟子等」と記されたのは、ご自分の弟子、信徒に対する呼びかけですね。
「さればわが弟子等、心みに法華経のごとく身命も惜しまず修行して」とあるうち、「法華経のごとく修行して」というのは、言い換えれば「如説修行」ということです。
御題目講でいつも拝読している『如説修行鈔』というご遺文については、以前にお話したことがありますね。今回の『撰時抄』の「法華経のごとく修行して」というのは、法華経に説かれている通りにその課題を自覚的に担って実践することであります。
ですからそれは「説の如く修行する」という「如説修行」と同じことになります。
釈尊の入滅後において、法華経の教えを実践することは、非常に困難であると強調されています。
法華経にはどのような法難・迫害が待ち受けているかが具体的に予言されているのですが、日蓮聖人はそれを文字通り体験され、法華経を「色読(しきどく)」された、いわゆる体で読まれたのです。
実は法華経には、そうした苦難に遭遇するという側面と同時に、もう一つの側面が説かれます。
すなわち、そうした苦難から逃げずに、自らに与えられた課題として前向きに取り組んでいけば、必ず守られるという側面も説かれるのです。
私たちはしばしば、諸天善神によるご加護ということを話題にしますが、正しい自覚をもって前へ進んでいこうとするとき、その覚悟が本物であれば守られるということなのです。
現代の私どもは、日蓮聖人が受けられた生命の危機に瀕するほどの法難には遭遇することはないかもしれません。
しかし少なくとも、正しく日常生活を送ろうとする場面では、誰もがさまざまな葛藤や試練を経験します。
病気になったり、怪我もする、人間関係の中で嫌だなと思うことにも、しばしば出くわしますね。
そうした苦難をどのように受け止めるかが大事なわけです。
いま自分が直面している課題や苦難は、自分自身にとって必要なことなんだと受け止めることができるかどうか。
大事なポイントは、そこから逃げたり、他人のせいにしたり、ごまかしたりしないこと。
自分にマイナス面があれば反省し、素直に認めて改める努力をすること。
日常のあらゆる出来事にはすべて無駄がないんだと気づくこと。
目の前に起こることのすべてがみな修行なんだということ。
こうした法華経の精神をどのように受けとめて実践するべきかということが、私たちにも問われているわけです。
ですから「法華経のごとく身命も惜しまず修行して」と説かれている内容を、現代の課題に置き換えますと、自分自身が生きていく指針となるべき規範をしっかりと持つこと、すなわち法華経を鏡として自己を照らし続けることが求められます。
そして日常生活ではさまざま困難なことに直面するけれども、それから逃げ出さないこと。
自分一人で生きることはできないので、周りの人に助けを借りながら、お互いに支え合い、信頼関係を保っていくこと。
自分だけが守ってもらおうというのではなく、お互いに助け合って生きていくことが大事ですね。
そうすると、普段の社会生活の中で、ふとした時に自分を守ってくれる人が現れてくる。
欲令衆の一節に「変化(へんげ)の人を遣わして」とありますが、突然目の前に現れた人に救われたり守られ
るという経験をすることもあるのでしょう。
でも、いい加減な気持ちや自分本位な態度では守られないのかもしれません。
このように法華経には「非常に困難だよ」ということが説かれる一方で、「本物であれば守られるよ」ということも説かれているのであります。
 
その一例として、本日の御題目講でも、御題目の後に宝塔偈、すなわち『此経難持』というお経を唱えましたね。
このお経にはどういう意味のことが説かれているかを、改めて簡単に説明してみます。
見宝塔品第十一の前半は「善哉善哉釈迦牟尼世尊・・・」と、多宝如来が登場して、多宝塔の中にお釈迦様と多宝如来が並んで座られます。
そして、お釈迦様はもうすぐ入滅されるので、法華経の精神の担い手を誰かに託すべく、覚悟を持てる人は自ら誓いの言葉を述べなさいと、お釈迦様から三度にわたる要請がなされます。
それに対して私がやります!と手を挙げる人が後に出てくるのですが、どれほどの心がまえが必要かということが、見宝塔品の後半には説かれるのです。
その締めくくりに説かれるのが、「此経難持」ではじまる偈文であります。
「此経難持 若暫持者 我即歓喜 諸仏亦然」
この法華経を実践することは困難であるけれども、もし暫くの間でも保持しようとする人がいれば、お釈迦様は歓喜され、多くの仏様もまたお喜びになるのであります。
「如是之人 諸仏所歎」
そのような自覚をもって修行する人は、諸仏からお褒めの言葉をいただくことになるでしょう。
「是則勇猛 是則精進」
これはまさしく、勇気をもって努力し、前向きに人生を歩んでいくことであります。
「是名持戒 行頭陀者」
「戒」とは規範を守ろうとする自発的な心であり、何か定められた項目だけを守れば良いというのではなく、自ら進んでお経に説かれている精神を守り伝えていこうとする心が重要なのです。
「頭陀」とは、頭陀袋でご存じでしょうが、元々インドのお坊さんが所有を許されていた3枚の衣と托鉢用の鉢を入れる袋のことです。インドの言葉で「ズータ」とは、払い落すという意味であり、煩悩を払い落とすための厳しい修行をすることを指します。
「則為疾得 無上仏道」
日常生活の中で、法華経の教えと向き合って生きていくことが最大の仏道修行になるのです。
「能於来世 読持此経 是真仏子 住淳善地」
お釈迦様の入滅後において、法華経を読み保つことには困難が伴いますが、それを成し遂げようとする人こそが、仏の生命を受け継ぐべき「仏の子」であり、淳善(不善を浄化すること)の境地に住することができるのです。
「仏滅度後 能解其義 是諸天人 世間之眼」
仏の滅後に法華経の精神を理解し納得して実践する人こそが、人間界と天上界において指導的な役割を果たすことになるでしょう。
「於恐畏世 能須臾説 一切天人 皆應供養」
恐れおののくようなことが起こる時代において、ほんの一瞬でも法華経の教えを説き伝えようと努力をする人は、あらゆる諸天善神がその人を供養するでありましょう。すなわちその人は諸天から守護されるというのであります。
このように、法華経の修行には困難が伴うけれども、正しい教えを受持しようとする覚悟を持って実践する人は、諸天の守護を受けることができると説かれているのです。
「困難ではあるけれども守られる」という一例であります。
 
さらに法華経の後半には、いつも拝読する観世音菩薩普門品第二十五があります。
観音様は宗派を超えて信仰されておりますが、広く私どもの願いを叶えてくれる菩薩として有名ですね。
当山の御宝前にも観音菩薩がいらっしゃいますが、法隆寺の夢殿を模した厨子の中に「救世観音」を奉安いたしております。
観音様のお姿は、十一面観音のようにいくつもの顔があったり、千手観音のようにたくさんの救いの手が表現されておりますが、お経によりますと、33の姿に変身して、多くの人々を守護することが説かれています。
ですから観音様にお祈りすればどんな願い事も叶うとされているわけです。
しかしながら、何を守ってくださるのかということを、少し掘り下げて考えてみますと、何でも私たちの願望を満たしてくれるのかというと、それは少し違うように思います。
祈願を立てるということは、自分はこの目標を達成するために頑張りますから、どうぞお力添えをお願いします、どうか見守って下さいということではないでしょうか。
受験にしても、縁結びにしても、「自分はそのために努力しますから、精一杯頑張れるようにお守り下さい!」というのが、本来の祈願の意味であるはずです。
とかく私たちは、自分の願望が満たされないと、この神様はダメだとか、ここの観音様は願いを叶えてくれなかったとか、人間が中心になって神仏を取捨選択するようなことを平気でおこなっているのではないでしょうか。
そうではなくて、自分が真剣に祈願を立てて努力をしたのであれば、願いが叶っても、叶わなくても、その結果は自分自身が受け入れなければならないはずです。
それを他人のせいにしたり、神仏に責任転嫁するようなことは慎まなければなりません。
願いが叶ったならば、その神仏に御礼詣りをするのが当然ですね。
でも、たとえそれが叶わなかったとしても、自分の努力が足りなかったのか、あるいはそちらの道を進むべきではなかったことを教えていただいたのだと感謝して、やはり御礼詣りをすべきではないでしょうか。
それが一本筋の通った信仰を持つことだと思います。
多くの日本人は、いわゆる「御利益信仰」ですので、目先の損得に振り回されて、こちらの神様、あちらの仏様と、渡り歩くのが当たり前だと思っているようですが、それでは本当の信仰というのがわからなくなりますね。
私は別に、たくさんの神仏を拝むことがいけないと言っているのではありません。
神仏とご縁を結ぶきっかけとなるわけですから、色々なお願い事をするのもいいですよ。
ただし大事なことは、祈願を立てた以上は、自分が一生懸命にやることを誓ったのですから、責任の主体はあくまでも自分にあるということです。
その結果がどうあれ、自分自身がそれを真摯に受け止めて、努力した経験によって何に気づかせてもらったのか、何を教えていただいたのかをきちんと確認して、すべてに感謝する。
そうすれば「御利益信仰」から一歩進んだ、成熟した信仰に近づくことができるわけです。
いつもお話しするように、仏教は「気づき・めざめ」の宗教ですから、自分自身が経験したプロセスの中で、どのような「気づき」を得たのかを認識することが最も大切なのです。
 
このように見てまいりますと、法華経の後半の各品には「現世利益」の側面が強く描かれておりますが、それは前半に説かれた厳しい側面との関連性に着目して、改めて考える必要があるのではないかと思います。
法華経の後半には23章の薬王菩薩・24章の妙音菩薩・25章の観音菩薩たちが私どもに利益を与えてくださることが説かれ、26章の陀羅尼品と28章の普賢菩薩勧発品には法華経を受持する者が守護されることが説かれます。
こうした「現世利益」の側面が説かれているのは、あくまでも法華経を受持することが条件となっているはずです。
先ほどの表現で言えば、「如説修行」という厳しい側面、すなわち相当の覚悟をもって法華経から要請されている修行のあり方を実践することによって、その功徳として「現世利益」が与えられるのです。
「現世利益」の側面だけに飛びついて、法華経は有り難いんだと思い込むのは、いいとこ取りの信仰ですね。
厳しい側面があって、そのプロセスの中でさまざまな経験することが大切なのであって、それがすべて仏道修行につながるのです。
それなのに厳しい側面は見ないようにして、あるいは無視してしまって、慈悲深い菩薩様や諸天善神のご加護だけをいただこうというのは、虫のいい話です。
それでは法華経を信じたことになりません。
自分に都合の良い部分だけを信じている人は、実は法華経のいいとこ取りになっていることに気づいていない人です。
日蓮聖人は、法華経の信仰者の中にも「謗法(ほうぼう)」の者が潜んでいると批判されました。
「謗法」とは、わかりやすく言えば、自分本位の心や自己満足の信仰ということです。
自分自身も含めて、その点は常に反省しなければならないのではないでしょうか。
つまり、厳しい側面があってこそ、本物を掴むチャンスが得られるのであって、その面を支えてくれるのが菩薩様や諸天善神という存在なのであります。
このような意味で、本物になるための覚悟をもって実践する者であれば、守られるというわけです。
本物になるためには大変ですね、実践を続けなければなりませんから。
こうして皆様が毎月お詣りに見えるのは、お経をあげ、御題目を唱えることによって、ご自分自身を顧みるためです。
そして、自分の至らない部分に気がつくこともあって、「気づき・めざめ」が、やがて「さとり」に繋がるはずです。
日々の生活の中で「あぁ、自分はこういう部分で足りなかったな」ということに気づかされてもらい、反省する。
それはきちんとした規範がなければできません。
ご都合主義の信仰では、自分自身が偉くなって、自己正当化してしまいます。
正しい信仰を持てるかどうかは、そこに分かれ目があるのです。
自己中心的な生き方をしている人は、何か批判的ことを言われると、ものすごく反発しますね。
自分のマイナスを認めないで、他人のせいにするのが常套手段です。
そういう人が現代には非常に多くなっているのではないでしょうか。
若い人ならば仕方ないかもしれませんが、最近は年配の方にも多い、年寄りのわがまま・・・。
心の耐性というか、柔軟性をもつことが大切ですね。
本物の信仰を持つということは大変ですけれども、皆様には是非ともこうした法華経の教えの真髄を感じ取っていただき、良いことばかりでなく、辛い時もあるけれど、それを乗り越えた時にこそ最も信仰の喜びが感じられるのではないかと思います。
 
さて、『撰時抄』の御真蹟の写真がこちらです。

「されば我が弟子等、心みに法華経のごとく身命も惜しまず修行して、此度、仏法を心みよ。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」とありますね。
ここには「心み」という用語が二度出てまいりますが、現代の表記に直せば「試み」と同じです。
日蓮聖人は「仏法を試みる」ことによって、さまざまな法難を体験されました。
先ほども申しましたように、日蓮聖人は法華経の教えが末法の時代にも活きていることを証明するために、いわば実験台となられたわけです。
そして法華経の真実性を証明された日蓮聖人が、門下の人々に対して「仏法を試みよ」とおっしゃっているのです。
仏法を試みるということは、自分自身が仏法をきちんと受け止めて、その教えの通りに生きてみることです。
教えの通りに生きていこうとする自覚をもって実践するとき、困難にも出会うけれども、必ず守られるという体験をしなさい、ということなのです。
試しに、仏法にどれだけの威力があるのか、願をかけてみたけれども、この仏様は自分の願望を叶えてくれなかったからダメだというのでは、自分が中心になってしまっています。
人間が上になって、神仏を低くみていますね。
自分が神様や仏様を試すというような意味ではないのです。
「仏法を心みよ」とは、人間が主体になって、色々な信仰をつまみ食いのように試しなさいということではありません。
もちろん、過去にさまざまな信仰遍歴があっても、それを全部否定するわけではありません。
私たちのこの世での経験に、すべて無駄なことはないのです。
各自が本当の信仰にめざめるプロセスにおいては、そうした信仰遍歴や紆余曲折も必要です。
注意すべきことは、この教えを信じることが絶対に正しいという独善的な態度に立って、他の信仰を頭ごなしに否定したりしてはならないということです。
いわゆるカルト的な教団では、信仰すればすぐに良いことが現れると説いて、それが現れないのは信心が足りないからなので、もっと教団に施しをしなさいとか、他の信仰者を回心させることをノルマに課して、実行しないと不幸になるという脅しをかけるようなことがあります。
はたしてそれが本当の信仰といえるのでしょうか?
 
日蓮聖人は法華経の教えと真剣に向き合って、お経に予言された法難を実際に受けられて、しかも諸仏・諸天から守護されるという体験をされました。
実験台になられたというのは失礼な言い方かもしれませんが、数多くの困難を乗り越えることによって、日蓮聖人は本物の法華経信仰を体得されたのです。
ですから門下の人たちにも法華経の教えを鏡として、覚悟を持って前へ進みなさい、とおっしゃることができたわけです。
「仏法を心みよ」とは、身命を賭けるほどの覚悟をもって、法華経の教えを実践してみなさい、という意味でご理解いただければよろしいかと思います。
法華経の信仰には多くの困難が伴いますが、それだけにチャレンジしていけば、ピンチをチャンスに変えられることが実感できるはずなのです。
私たち人間は、魂の修行のためにこの世に生きているのです。
日常生活の中で、御題目を規範とすれば、その人の魂を成長させるのに必要な修行が与えられます。
「仏様はその人が背負いきれない荷物を背負わせない」と言われますね。
私たちは、自分本位の願望を優先するのではなく、仏様のはからいに随順して生きることによって、魂を成長させる道が開かれるのであります。
 
以上が住職の法話でございました。
 
私たちは、日頃生きていく中で、どうしても自分本位な立場で物事を見てしまったり、自己中心的な考え方に陥ってしまうことが多々ありますね。
そうではなく、そんなときは一度立ち止まって、自分は正しい道を歩めているのか、常に自己反省をしていくことが大切ですね。
私自身も、布教研修所では、毎日たくさんの出来事が起こります。
その出来事すべてが自分に何かを教えてくれているのではないか、と思うようにして精進しております。
皆様も、日常生活で起きる全ての出来事が勉強であると感じて、前向きに日々を生きてまいりましょう。
 
来月は、当山妙恵寺の盂蘭盆会施餓鬼法要でございます。
7月16日(日)14時から妙恵寺本堂にて奉行いたします
裕真副住職、並びに布教研修所の同輩上人も出仕いたしますので、皆様のお越しを心よりお待ちしております。
合掌
裕真。
 

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