今月の掲示板は、法華経 方便品第二「若有聞法者 無一不成仏」です。
法華経の序品第一では、お釈迦様はインドの霊鷲山で瞑想をし続け、ひと言も発しません。聴衆はお釈迦様の説法を待ち続け、方便品第二に至って、ようやく説法が始まります。
その方便品で説かれた教えは「二乗作仏(にじょう さぶつ)」です。二乗とは、声聞・縁覚といわれる人々で、法華経以前の教えでは成仏できないとされ、法華経で初めて、その成仏が保証されるのです。
声聞とは、「自己の悟りのみを得ることに専念し、利他行を欠いた出家修行者」を意味します。簡単に言うと、菩薩行をしない出家修行者です。
私たちが今、平等の成仏、一切衆生の成仏を説く仏教に出会い、それを信じることができるのは法華経のおかげです。お釈迦様が法華経を説かなければ、成仏できない人々が実は存在したのです。
成仏できないとされてきた声聞の代表として、お釈迦様の直弟子である舎利弗や阿難、目連尊者等が法華経に登場し、次々と成仏の保証を授かっていくのです。
その二乗作仏が説かれた方便品に「若有聞法者 無一不成仏」の経文が登場します。意味は、「もし法を聞いた者は、一人として成仏しない者はいない」です。つまり、法華経を聞いた者は、一人も欠けることなく成仏するということです。
日蓮聖人の御妙判『妙一尼御前御消息』に「法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる。いまだ昔よりきかず、みず、冬の秋とかえることを。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となることを」とあります。
季節が秋から冬へと自然に移りゆくのと同様に、法華経を信ずる人は、みな仏になる。その理由として、「若有聞法者 無一不成仏」の文を引用されて説明されています。
仏教信仰の最終目的は成仏です。そして、お葬式や法事では故人様の成仏を一心に願います。その根拠となる経文の一つが、今回ご紹介の「若有聞法者 無一不成仏」なのです。