明治17年(1884)に田中智学によって創められた国柱会は、坪内逍遥・高山樗牛・姉崎正治・植中直斎・北原白秋・宮沢賢治・石原莞爾・牧口常三郎・武見太郎らに影響を与えたことで知られる、純正日蓮主義を標榜し活動した在家仏教教団です。現在、東京都江戸川区にある国柱会は、大正5年(1916)に帝都活動の道場として東京市下谷区(現、台東区)の鶯谷に国柱会館を創建します。実は、国柱会館は、当山(要傳寺)と言問通りを挟んだ向かい側に所在していたことが知られているのですが、昭和20年(1945)の東京大空襲で焼失したこともあってか、その正確な位置については詳らかでない部分がありました。
このたび、新たな史料が確認されましたので、ご報告いたします。
史料の1点目は、昭和10年(1935)版の『地籍簿』(『復刻版 東京地籍図』台東区編、不二出版、2011年)で、これには、国柱会の出版部局にあたる「株式会社 天業民報社」の名がみえ、その住所が「下谷区上桜木町1」(正しくは「下谷区上野桜木町1」)であることが読み取れます。
2点目は、同じ昭和10年11月作図になる『下谷区火災保険地図』で、その「下谷区32」には、「天業民報社」の建物の構造を輪郭で示した図面が確認されます。国柱会本部提供の写真数点と照らし合わせても、1000人収容できたと伝える講堂を擁した複雑な構造の建物の様子や広い前庭が見て取れます。この「天業民報社」と記載のある建物が、まさに初期の「国柱会館」にあたります。
次に、史料の3点目、写真集『台東区』(DECO『昭和の東京』2、2013)には、凌雲橋(新坂)の下から鶯谷駅を見上げるかたちで昭和43年(1968)に撮影された写真が掲載されており、左側路地の入り口に門柱らしき構造物が確認できます。『下谷区火災保険地図』にみえる昭和10年頃の天業民報社の施設には、この門を正門として出入りするような構造も読み取れるのです。写真が撮影された半年前に、国柱会は、現在の江戸川区一之江の本部に活動の拠点を移したことになっているのですが、東京大空襲で焼けた昭和20年以降の当地での国柱会館の施設の状況については残念ながら定かではありません。昭和27年(1952)の『火災保険地図』には施設の名称は確認できません。
また、『全面航空地図 全住宅案内地図帳』(1966年)には「田桂会」の表記で図に落とされた建物がありますが、これが国柱会を指し示すか否か明確でないこと、施設の規模が小すぎること、立地場所が不自然なことなどが気にかかります。果たして、昭和40年代当時の様子を示す資料となるのでしょうか。このほか、小沢俊郎編『賢治地理』(学芸書林、1975年)所載の奥田弘氏の論文「宮沢賢治の東京における足跡」にも「国柱会館」の大まかな位置関係を示した地図が挿入されていますが、この度の新発見史料ほど厳密な記録は、管見の限り確認できません。
なお、戦後の国柱会館の実態に関して、当山檀徒で昭和初期創業の鶯谷萬屋酒店の長恒男氏談によれば、戦後も同地に新たに建築された施設があったとのこと。
今回の発見について、文献・史料の画像は著作権の関係で、本サイトには転載できませんが、台東区立中央図書館にすべて所蔵されておりますので、実際に手にとって閲覧が可能です。
この度の調査に当たっては、上野寛永寺長臈 浦井正明氏、宗教法人国柱会賽主 田中壮谷氏、同理事 森山真治氏、根岸子規庵元館長 奥村雅夫氏、台東区立中央図書館郷土資料調査室専門員 平野惠氏、鶯谷萬屋酒店 長恒男氏の御教示をいただきましたことを付記しておきます。また、調査報告書は、宗教法人国柱会ならびに台東区立中央図書館に提出しております。
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(文責 高森大乗)
* アイキャッチの写真は、国土地理院ウェブサイト(https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=430567&isDetail=true)から転載したもので、戦後の昭和38年頃の航空写真になりますが、『下谷区火災保険地図』にみえるような建造物は、当該地に確認できません。因みに、写真右上に言問通り拡張工事数年前の要伝寺の寺観が看取できます。
* Googleマップではコチラの一角が、かつて国柱会館の建物のあった場所となります。今も、ロの字型の不思議な空間が広がります。
なお、当サイトの下記の記事も併せてご覧下さい。
・【推薦図書】寺内大吉著『化城の昭和史~二・二六事件への道と日蓮主義者』上下(毎日新聞社)
・宮沢賢治と鶯谷・国柱会館~5月5日こどもの日公開?映画「銀河鉄道の父」より~
・浜島典彦編著 『日蓮学の現代』(春秋社)発刊
・『日蓮学の現代』発刊感謝の集い