宮沢賢治(1896-1933)と言えば、日本のみならず世界中の人々の心に生き続ける詩人・童話作家として有名ですが、歿後90年となる今年(2023年)、激動の時代にある私たちに生きる力を与えてくれる、映画史に残る一本が誕生しました。
タイトルは、『銀河鉄道の父』。監督は、成島 出。出演は、役所広司(父・政次郎)・菅田将暉(長男・賢治)・森 七菜(妹・トシ)・坂井真紀(母・イチ)・田中 泯(祖父・喜助)・豊田裕大(弟・清六)ほか。昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、源義経・藤原秀衡役を演じた菅田将暉・田中 泯が平泉から北上川50km上流にある花巻を舞台に、孫役・祖父役として共演するのも見どころです。また、イチ役の坂井真紀は、当山の所在する台東区根岸出身(かつ当山住職と同じ区立中学校出身)の俳優でもあり、不思議な縁を感じます(5月5日の映画封切り当日に、根岸界隈を紹介するテレビ番組にも坂井真紀が出演しています)。原作は、直木賞作家の門井慶喜。膨大な賢治関係資料の中から賢治の父 政次郎について書かれたものを集め、笑いあり涙ありの感動の親子愛を描きます。
賢治はまた、日蓮聖人に心酔し、法華経に生きた人物としても知られます。その彼が宗教的拠り所として傾倒したのが、日蓮系信仰教団の国柱会(こくちゅうかい)でした。
明治17年(1884)に田中智学(1861-1939)によって創設された国柱会は、純正日蓮主義を標榜し活動した在家仏教教団で、大正5年(1916)に帝都活動の道場として東京市下谷区(現、台東区)の鶯谷に国柱会館を創建します。実は、国柱会館は、当山(要傳寺)と言問通り(ことといどおり)を挟んだ向かい側に所在していたことが知られています(鶯谷の国柱会館については、コチラをご参照ください)。映画本編の特報・予告でも、賢治が国柱会館を訪ねて入信する場面が告知されています。
賢治の生涯について詳しくお知りになりたければ、年譜形式でつづった伝記として、堀尾青史著『年譜宮沢賢治伝』(中央公論新社『中公文庫』、1966・1991年)をお薦めします。また、宮沢清六著『兄のトランク』(筑摩書房『ちくま文庫』、1991年)は、賢治の生涯を傍らから見つめた実弟の視線から賢治の人物像や賢治文学の諸相を語ったものとして必読の書と言えます。小説・映画と併せてお読みいただければ、作品への没入感が否が応でも高まります。
また、要伝寺からほど近くにある法昌寺(法華宗本門流、台東区下谷2-10-6)の福島泰樹氏が宮沢賢治について語った著書『宮沢賢治と東京宇宙』(NHK出版、1996年)、および絶叫詩人としてご活躍の同氏のTwitter記事も併せてご参照ください。
以下に、映画「銀河鉄道の父」のイントロダクションの一文を抜粋します。
「今もなお唯一無二の詩や物語で、世界中から愛されている宮沢賢治。だが、生前の彼は無名の作家のまま、37歳という若さで亡くなった。彼の死後も、その才能を信じ続けた家族が、賢治の作品を諦めずに世に送り続けたために、高い評価を得るようになったのだ。そんな賢治は、「ダメ息子だった!」という大胆な視点から、賢治への無償の愛を貫いた宮沢家の人々を描く。(中略)エンドロールへとたどり着いた時、観る者の胸を張り裂けんばかりに満たすのは、政次郎や家族の賢治への絶対的な愛と、彼を信じる強い想い。ぶつかり合い、支え合い、輝かしくも美しい人生を送った宮沢賢治とその家族。賢治没後90年となる2023年、どんなに時代は変わろうとも、家族の愛は変わらない。笑って、泣いたその後に、自分の家族に会いたくなる、あなた自身の物語」(一部改稿)
「無名だった宮沢賢治を支えた、父と家族の絶対的な愛に涙する。日本中に届けたい感動の物語」「笑って、泣いて、ぶつかって…弱いけど強い、それが家族」(フライヤー&ポスターリードより)、映画『銀河鉄道の父』、令和5年(2023)5月5日全国ロードショウ、乞うご期待!
【宮沢賢治の人物像】
宮沢賢治(1896-1933)は、日本文学に独特な世界観を開拓した詩人であり、童話作家である。質屋・古着商を営む家に生まれ、凶作や飢饉に見舞われる過酷な風土の中で育つ。18歳の時、法華経を読んで感動し、熱烈な法華信者となり、24歳の時、法華経を信奉する日蓮系信仰団体「国柱会」に入会。宗教と芸術の融合について示唆を受け、創作活動に専念するようになった。賢治の文学の根底にはこの法華経の教えがあり、これが賢治が宗教思想家と呼ばれる所以となっている。
25歳の時、県立花巻農学校の教諭になると、口語詩の制作を開始し、地元の新聞や同人誌に詩や童話を発表。28歳で詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』を自費刊行する。
30歳で農学校を退職し、独居自炊の農耕生活に入る。農業青年を集めて「羅須地人協会」をつくり、農芸化学や農民芸術論の講義、レコード鑑賞、合奏練習などの文化活動を開始した。また無料で肥料設計を行うなどの献身的な活動の傍ら、農業・芸術・科学・宗教の一体化を目指すが、警察当局に目をつけられたり、結核を発病したりなどして挫折した。その後病気が一時回復して砕石工場の技師となるが再び発病し、『銀河鉄道の夜』などの膨大な未発表原稿を残して37歳で歿した。
生前は一部の詩人に高く評価されながらもほとんど無名だった。その膨大な詩と童話は、みずみずしい言語感覚、奔放な想像力、自然との交感に満ちている。そこにひそむ文明への深い洞察により、次第に多くの読者を獲得し、日本を代表する国民作家の一人となった。現在、彼の作品をもとにさまざまな絵本や映画、舞台が創作されている。
【小説に登場する主な仏教用語解説】
小説『銀河鉄道の父』の作中に用いられた仏教用語を解説します。頁数は、門井慶喜著『銀河鉄道の父』(株式会社講談社『講談社文庫』か126-2、2020年初版本、ISBN978-4-06-518381-6)の初出頁ほかとなります。
(1)浄土真宗(13・305頁)
真宗ともいう。鎌倉新仏教の一で、浄土教の一宗。専ら他力による往生を旨とする宗派で、阿弥陀如来の本願力によって極楽浄土に往生できるという。
(2)東本願寺・御影堂(13頁)
真宗本廟東本願寺。京都府京都市下京区烏丸通七条上るにある真宗大谷派の総本山。親鸞(1173~1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したことに起源する。親鸞の御身影(ごしんえい)を安置する御影堂(ごえいどう)は、国の重要文化財に指定されている。
(3)親鸞(13・130頁)
親鸞(1173~1262)は真宗(浄土真宗)の開祖。はじめ比叡山で修学したが、後に法然房源空(1133~1212)の門に入って念仏に帰依した。源空の土佐流罪に際しては、還俗の上、ともに越後に配流される。赦免後、妻帯した恵信尼とともに東国常陸に赴き、また晩年は京都に戻って『教行信証』などを著している。親鸞歿後に弟子によって著された『歎異抄』は、親鸞の弟子善鸞をはじめ真宗教団内に湧き上がった異端思想を嘆いた書として知られる。
(4)なむあみだぶつ・南無阿弥陀仏・称名(13・298頁)
「阿弥陀仏に帰依(南無)します」という意味。浄土教で称える六字名号。阿弥陀如来の四十八願のうち、第十八願に往生念仏の願が示され、これを「本願(王本願)」と呼ぶが、浄土教では、「南無阿弥陀仏」という六字名号の称名念仏によって、阿弥陀如来の本願たる「往生念仏の願」にすがり、西方極楽浄土に往生することを目的とする。これを「他力本願」という。
(5)安浄寺(49頁)
花巻山安浄寺。岩手県花巻市桜木町1-46にある浄土真宗大谷派の寺院。延徳3年(1491)、蓮如の弟子弘教坊釈水堅によって創建される。宮沢家の菩提寺で、賢治の父政次郎は同寺の檀家総代も務めるほどの篤実な仏教徒であった。宮沢家は、昭和26年に日蓮宗身照寺を菩提寺として宗旨替えし墓所を移している。
(6)開経偈(123・188頁)
仏教各宗派で経を開き読誦するのに先立って唱える偈文(げもん)。「無上甚深微妙法 百千万劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来真実義(無上甚深微妙の法は百千万劫にも遭い遇うこと難し。我今見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解せん)」。なお日蓮宗では、同じ開経偈でも「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭い奉ること難し。我今見聞し、受持することを得たり、願わくは如来の第一義を解せん(以下略)」と、称える文句が異なっている。
(7)島地黙雷・島地大等(178頁)
島地黙雷(1838~1911)は、明治時代に活躍した浄土真宗本願寺派の僧。島地大等(1875~1927)はその養嗣子(法嗣)で、黙雷亡き後は盛岡願教寺(浄土真宗)の住職となり、曹洞宗大学(現・駒澤大学)、日蓮宗大学(現・立正大学)、東洋大学などで教え、1923年から東京帝国大学(現・東京大学)でインド哲学を教えた。歿後、『天台教学史』など多くの遺稿が刊行されている。宮沢清六著『兄のトランク』(筑摩書房『ちくま文庫』1991年)246頁によれば、賢治は、盛岡中学時代に しばしば仏教の勉学のために訪れた願教寺にて島地大等と出会っている。ただし、賢治が法華経に最終的に帰依するのは、盛岡高等農林卒業の間際である。『兄のトランク』70頁に、当時の賢治の宗教観を窺い知ることのできる葉書(大正元年11月3日状)が紹介されている。
(8)報恩寺(180頁)
瑞鳩峰山報恩禅寺。岩手県盛岡市名須川町31-5にある曹洞宗の古刹。貞治元年(1362)開山、応永元年(1394)創建。本尊は釈迦如来。境内の羅漢堂にある五百羅漢で有名で、京都の9人の仏師の手により、享保16年(1731)から4年を費やして造られた。全て寄せ木造り、漆塗りで、像の中にはマルコポーロ、フビライなども見られる。大正元年11月3日付の賢治書状に「報恩寺の羅漢堂」とみえるは、同寺のことをさす。賢治は、同寺住職の尾崎文英の下にて参禅し、高農在学中も足繁く通った。宮沢清六著『兄のトランク』(筑摩書房『ちくま文庫』1991年)68・246頁参照。
(9)漢和対照妙法蓮華経(184・303頁)
島地大等編著になる法華経の原文(漢文)と書き下し(訓下文)の対照本。明治書院より1916年に発刊された。装丁が赤い表紙であったところから、通称「赤本」と呼ばれる。宮沢賢治が法華入信の機縁となったのはこの経巻に出会ったことによる。賢治の弟・清六が賢治の遺志で発行した『国訳妙法蓮華経』は、島地大等の『漢和対照妙法蓮華経』を校訂したものであると伝えられる。
(10)妙法蓮華経(187・188頁)
鳩摩羅什(344~413年)によって406年に漢訳された『妙法蓮華経』全8巻(調巻によっては全7巻本も伝わる)。法華経と略す。妙法蓮華経は、梵語(サンスクリット)サッドダルマ・プンダリーカ・スートラ(Saddharma-pundarika-sutra)の漢訳。サッドは「正しい、真実の」、ダルマは「法」の意で、つまりサッドダルマは「正しい真理(の教え)」の意味。一般に「正法」と訳されるが、鳩摩羅什はこれを「妙法」と訳した。「蓮華」の原語であるプンダリー力は、正しくは「白蓮華」を意味する。妙法蓮華は妙法(サッドダルマ)と蓮華(プンダリーカ)という二つの言葉の合成語で、梵語の合成語は、後の語が前の語を修飾するため、「蓮華のようにすばらしい妙法」というのが妙法蓮華の意味である。
(11)浄土三部経(187頁)
浄土宗・浄土真宗等の依経である『無量寿経(大無量寿経・大経)』『観無量寿経(仏説観無量寿仏経・観経)』『阿弥陀経(小無量寿経・小経)』のこと。
(12)天台宗・日蓮宗(188頁)
天台宗は、中国随代に天台大師智顗(538~597)が開いた仏教学派(衆派)。伝教大師最澄(767~822)が入唐求法して日本に伝え、天台法華宗として開いた。日本天台宗の総本山は、比叡山延暦寺(滋賀県)。鎌倉時代には、源空(法然)・親鸞・道元・栄西・日蓮ら鎌倉仏教諸宗の祖を輩出している。日蓮宗は古来、法華宗、日蓮法華宗などとも呼ばれた鎌倉時代成立の宗派で、今日の宗教法人「日蓮宗」の名称は、明治9年(1876)に公許されている。宗祖は日蓮聖人(1222~1282)、開宗は建長5年(1253)4月28日、所依の経典(依経)は『妙法蓮華経』、信仰の対象(本尊)は法華経本門の教主たる釈迦牟尼仏、総本山は身延山久遠寺(山梨県)である。
(13)極楽浄土・阿弥陀仏(190頁)
極楽浄土は、阿弥陀如来(阿弥陀仏)の住処。『仏説阿弥陀経』によれば、西方十万億土の仏土を過ぎたところに存在する浄土で、西方浄土とも称する。三塗および諸の苦難がなく、ただ快楽のみがあり、阿弥陀如来が常に住して法を説く世界。この極楽に死後往生しようというのが、浄土教である。
(14)娑婆ふさぎ(191頁)
「娑婆」は、梵語Sahaの音写。語源的には「忍ぶ」の意。忍土・堪忍土・忍界と漢訳する。この世界の衆生は内に種々の煩悩があり、外には風雨寒暑などがあって、苦悩を堪え忍ばねばならないところから、この名がある。なお、「娑婆ふさぎ(娑婆塞ぎ)」とは、生きているだけで何の役にも立たないこと。
(15)教浄寺(198頁)
擁護山無量院教浄寺。岩手県盛岡市北山1-13-25にある浄土門時宗の寺。南部五山の一。南部信長によって正慶2年(1333)青森県三戸に建立、盛岡城築城に伴い、慶長17年(1612)当地へ移転した。宮沢賢治が盛岡高等農林学校入学直前の3ヶ月を当寺にて下宿していた。
(16)南無妙法蓮華経(295・296頁)
「妙法蓮華経に帰依(南無)します」という意味。日蓮宗はじめ日蓮系教団で唱える題目。妙玄題目、玄題、七字妙題などともいう。題目を唱えることを唱題という。
(17)太鼓(295頁)
日蓮系教団で用いられる法具。太鼓の一種で、金属の丸い枠に皮を張り、持つのに便利なように柄をつけたものでその形状が団扇に似ているところから「団扇太鼓(うちわだいこ)」とも呼ばれる。据え付けの大太鼓と異なり携行が可能で、「南無妙法蓮華経」の題目を唱えながらこれを打ち鳴らして練り歩くことを「唱題行脚(しょうだいあんぎゃ)」などとも呼ぶ。古くは一枚張りのもので、歌川(安藤)広重の版画として知られる江戸自慢三十六興「池上本門寺会式」などにも描かれているところから、江戸時代中期頃には、かなり普及していたものと思われ、この当時から題目講中・万灯講中で広く用いられていたことがわかる。なお、両面張りの団扇太鼓もあり、これは江戸末期か明治初期のことであろうと推定されている。
(18)国柱会・田中智学(295頁)
国柱会は、坪内逍遥・高山樗牛・姉崎正治・北原白秋・宮沢賢治・石原莞爾らに影響を与えたことで知られる純正日蓮主義を標榜し活動した在家仏教教団である。明治17年(1884)に田中智学(1861~1939)によって創められた。会名の由来は、日蓮聖人のことばである「日本の柱」(『開目抄』601頁)、「日本国の柱」(『撰時抄』1053頁)による。智学はもと日蓮宗の僧侶であったが、宗門改革を目指して明治13年(1880)に横浜で蓮華会を設立、明治17年(1884)に活動拠点を東京へ移し立正安国会と改称、大正3年(1914)には諸団体を統合して国柱会を結成した。賢治は、父政次郎との信仰上の葛藤に苛まれていたある日、店の火鉢にあたっていた時に棚から落ちてきた日蓮聖人の著書が背中にあたり、その瞬間、日蓮聖人から背中を押されたと感じて国柱会に入会する決意を固めたという。なお、戦前の日本におけるナショナリズム(国家主義・国粋主義)・ソーシャリズム(社会主義)・テロリズムなど幅広いイデオロギーの源泉となった「日蓮主義」については、コチラの記事も是非あわせてご一読下さい。
(19)日蓮聖人・日蓮(296・305頁)
日蓮聖人(1222~1282)は、鎌倉仏教の祖師のひとりで、今日の日蓮宗ならびに日蓮系諸教団の開祖。釈尊の一代仏教の真髄が法華経にあるとして、南無妙法蓮華経の題目受持を勧奨した。主著に『立正安国論』『開目抄』『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』などがある。
(20)曼陀羅・十界曼陀羅・本尊・ひげ題目(296・297頁)
曼荼羅(曼陀羅)とは、サンスクリット語のmandalaを音訳したもので、仏の世界の真理を図様化したもの。日蓮聖人は、紙本または絹本を用いて、「南無妙法蓮華経」の題目七字を中心に仏菩薩等の諸尊をしたため、これを聖人自身は「大曼荼羅(大漫荼羅)」と呼んでいる。法華経の如来寿量品で明かされた久遠実成の釈尊を本尊とし、霊鷲山虚空会(りょうじゅせんこくうえ)での法華経の説法の場面を表顕したもの。虚空会では、釈迦・多宝の二仏が並び坐した多宝塔を中心に、諸仏(十方分身仏など)・諸菩薩(上行菩薩・弥勒菩薩など)・諸天善神(四天王・天照大神・八幡大菩薩など)等が列座し、釈尊滅後に法華経を弘める本化の菩薩たちに四句の要法(所有の法、自在の神力、秘要の蔵、甚深の事)を託す「付嘱(付属)の儀式」が展開する。日蓮聖人は、このとき釈尊より付嘱された要法こそが「南無妙法蓮華経」であると解釈し、この法華経の虚空会の儀式を殊更に重視して、久遠の釈尊による救済の世界を「大曼荼羅」として図顕した。なお、日蓮教団で「本尊」と言えば、一般的に「大曼荼羅」をさす。また、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界がしたためられた大曼荼羅を「十界勧請大曼荼羅」「十界曼荼羅」などと呼ぶ。中央に大書された題目七字は、筆の払いなどが豪快な筆致であるところから、「ひげ題目」と呼ばれる。
(21)常不軽菩薩(300頁)
『法華経』常不軽菩薩品において釈尊の本生譚として登場する菩薩で、人々の仏性を敬い礼拝すること(但行礼拝)を専らの行とした。この但行礼拝に対して瞋りの念を起す者(四衆)がいて菩薩を迫害したが、常不軽菩薩は礼拝讃歎の行を止めず、その功徳で法華経に巡り逢いついに成仏することができ、菩薩を軽賤した人々もひとたび無間地獄の大苦を受けた後、その罪を償い終わってやがて成仏することができたという。この故事に示された重要なテーマは、たとえ法華経を信仰していない者であっても、法華経と結縁(けちえん)する機会さえあれば、いずれその種が芽を咲かせ皆一同に成仏して、法華の浄土である「常寂光土(じょうじゃっこうど)」で仏陀釈尊や法華経信仰に生きた人々に面奉できることの根拠が示されていることである。賢治の遺言は、このためにあった。
(22)天業民報(303頁)
「国柱新聞」とならび国柱会の文書伝道の主要媒体となった機関誌。東京鶯谷国柱会館の天業民報社から発刊されている。国柱会は、その創立当初から言論に文書に純正日蓮主義を鼓吹する宣伝活動を行っており、とくに文書伝道の中心をなしたのが、夥しく出版されたこれら機関誌の発行であった。
(23)妙宗式目講義録(304頁)
『本化妙宗式目大講義録』のこと。明治35年(1902)、田中智学は日蓮主義教学の組織大成をめざし、「本化妙宗式目(ほんげみょうしゅしうしきもく)」を完成し、翌年大阪の立正閣で本化宗学研究大会を開講、約200人の受講者に1年間これを講じた。門下の山川智応(1879~1956)が筆受整記した講義録は、5巻3300頁に及び、明治37年より『本化妙宗式目大講義録』と題して8年の歳月を費して刊行された。
(24)会館(308頁)
大正5年(1916)に帝都活動の道場として東京市下谷区(現、東京都台東区)の鶯谷に創建された国柱会館のこと。詳細はコチラから。また、関連記事はコチラから。
(25)高知尾智耀(321・329頁)
高知尾智耀(1883~1976)は、早稲田大学在学中、高山樗牛の文章に感銘し樗牛追悼会で田中智学の講演を聴講し、これが機縁となって明治44年(1911)に国柱会に入会。最勝閣に本化大学準備学会教授として奉職、以来国柱会理事、天業青年団幹事長、明治会講師などを歴任。智耀から「法華文学ノ創作」をすすめられた賢治は、筆耕校正の仕事で自活しながら文芸による『法華経』の仏意を伝えるべく創作に熱中した。
(26)寿量品(489頁)
『妙法蓮華経』の中心的教義が説かれる第16番目の章「如来寿量品」のこと。釈尊は、30歳(通仏教では35歳)の時にガヤ(現・ブッダガヤ)で悟りを開き80歳の時にクシナガラで入滅するという有限の寿命をもつ仏(如来)ではなく、五百億塵点劫という久遠の過去世に成仏した永遠の仏であること、その救済は眼前にいる「在世」の衆生のみならず釈尊なきあとの「滅後」の衆生に及ぶこと、そしてその永遠の世界は、この娑婆世界にこそ顕現される永遠の浄土(常寂光土)であることが説かれる。日蓮聖人は、この如来寿量品が説かれた霊鷲山虚空会(りょうじゅせんこくうえ)の説法の場面こそ、この娑婆世界にひととき姿を現した久遠の釈尊の永遠の浄土であるとして、これを「霊山浄土(りょうぜんじょうど)」と呼んだ。
(27)雨ニモマケズ(502頁)
宮沢賢治(1896~1933)の代表作。「雨ニモマケズ」に示された「デクノボー」精神は、『法華経』に説かれる常不軽菩薩(前掲)の菩薩道を詠ったものとして世に高く評価されている。賢治は、「法華経詩人」と称されるほど熱心な法華経信仰者で、日蓮聖人の「本化の菩薩」として生きた不惜身命の志に深く感化された。そのことは、「雨ニモマケズ」手帳の詩の末尾に、南無妙法蓮華経の七字、釈迦・多宝の二仏、本化の四菩薩(一塔両尊四士の文字曼荼羅)がしたためられていることからも窺える。
この詩には、法華経の重要なテーマが幾つも鏤められている。法華経の教えの3つの柱は、(1)開会の法門(開三顕一・開迹顕本)、(2)付属の儀式、(3)菩薩行の実践であるが、釈尊は、真実の教え(正法)たる法華経を弟子や修行者たちだけのものにするのではなく、その教えの真髄を世の中に弘め、世間に還元していくことを切望し、法華経を委嘱(付属)すべく大地の底から数多くの菩薩たちを召喚した。いわゆる「本化の菩薩」と呼ばれる釈尊の久遠の弟子たちである。その上首が上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩で、彼らこそが、仏の教えをこの世に実践していく使命を帯びた4人の菩薩たち(本化の四菩薩)であった。実は、賢治の「雨ニモマケズ」の終盤で、畳みかけるように出てくる「行ッテ」という字句には、大きな意味が込められている。
東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ ■■■ツマラナイカラヤメロトイヒ
多くの活字本では、最後の一文には「行ッテ」の文字がない。しかし、実際に、賢治の「雨ニモマケズ」手帳を手に取ると、赤鉛筆で書き込みが加えられていて、「行ッテ」が4箇所あったことがわかる。この事実は、賢治が信仰した法華経に登場する4人の菩薩の名前に、共通して「行」という字が入っていることと無関係ではない。東西南北に書かれたこの部分の「行ッテ」は、特に大事で、賢治にとっては、「法華経」をこの世で実践することが何より大切であり、知恵や知識があっても行動しなければ意味がないからである。行動こそ、「行ッテ」なのである。
賢治が信仰した国柱会では、法華経は僧侶のような修行者たちだけのものではなく、一般庶民が進んで実践すべき教えであるとして活動を展開した。その理念に感化された賢治は、文芸を通じて法華経の教えを世の中に伝えるべく法華文学の創作に没頭した。しかし、周知の通り、賢治は、晩年、結核を患い、病の床にある日々か続いていた。行動することが大切だということ、それは自分で動くことができない賢治の切なる願いではなかったか…、そのような背景を知った上で、賢治の作品を読み返してみるのも、また味わい深い。
【宮澤賢治略年譜】
明治29年(1896) 0歳 8月27日、岩手県稗貫郡花巻町(現、岩手県花巻市)にて宮澤家長男として生まれる。父政次郎・母イチ。
明治36年(1903) 7歳 町立花巻川口尋常高等小学校(在学中に花城小学校と改称)へ入学。
明治42年(1909) 13歳 3月、町立花城小学校卒業。4月、岩手県立盛岡中学校へ入学。
大正2年(1913) 17歳 舎監排斥運動で中学校の宿舎から4・5年生全員退寮させられ、盛岡市北山の仏寺清養院に下宿開始。
大正3年(1914) 18歳 3月、岩手県立盛岡中学校卒業。
大正4年(1915) 19歳 4月、盛岡高等農林学校第二部農芸化学科目へ主席入学、主任教授関豊太郎に師事。9月、妙法蓮華経への信仰を篤くさせる。
大正6年(1917) 21歳 友人等と同人誌『アザリア』を創刊、本格的な創作活動を開始。
大正7年(1918) 22歳 3月、盛岡高等農林学校卒業。4月、高農研究生としての研究生生活始まる。12月、妹トシ入院。
大正9年(1920) 24歳 1月、日蓮宗へ改宗、東京鶯谷の国柱会館を訪れ国柱会へ入会。盛岡高等農林学校研究生を終了。
大正10年(1921) 25歳 家族に無断で上京、その後父と二人で関西を旅行。トシ罹病の報を受け帰郷。12月、郡立稗貫農学校教諭に就任。
大正11年(1922) 26歳 妹トシ、24歳で病歿。『精神歌』『飢餓陣営』『イギリス海岸』『牧歌』『山男の四月』『永訣の朝』創作。
大正12年(1923) 27歳 稗貫農学校が県立花巻農学校となる。『やまなし』『氷河鼠の毛皮』『シグナルとシグナレス』等発表。
大正13年(1924) 28歳 生徒と北海道修学旅行。詩集『春と修羅』、童話集『注文の多い料理店』発刊。
大正15年(1926) 30歳 3月、県立花巻農業学校の教諭を退職。羅須地人協会設立。『農民芸術概論』『オツベルと象』『ざしき童子のはなし』『猫の事務所』等創作。
昭和3年(1928) 32歳 12月、急性肺炎を発病。
昭和6年(1931) 35歳 東北砕石工場技師委嘱。『北守将軍と三人兄弟の医者』『雨ニモマケズ』発表。
昭和7年(1932) 36歳 童話『グスコーブドリの伝記』他発表。
昭和8年(1933) 37歳 9月21日、実家にて死去。翌年、草稿が発見された『銀河鉄道の夜』発刊。
(文責 高森大乗)
なお、当サイトの下記の記事も併せてご参照されたし。
・【推薦図書】寺内大吉著『化城の昭和史~二・二六事件への道と日蓮主義者』上下(毎日新聞社)
・「国柱会館」の所在地を示す史料を発掘
・論文「国柱会館の所在地を示す新資料」寄稿
・浜島典彦編著 『日蓮学の現代』(春秋社)発刊
・『日蓮学の現代』発刊感謝の集い