昭和20年(1945)8月15日は太平洋戦争の終戦日ですが、日本軍の戦いはその後も樺太・千島列島・満州国・朝鮮半島等において続いていました。日ソ両軍200万の兵士が関わった対ソ防衛戦、所謂「日ソ戦争」です。日本の戦争が本当に終わったのは、8月15日ではなく、ソ連赤軍が侵攻をやめた昭和20年9月5日(日本軍の武装解除は9月7日)のことでした。
そもそも当初、日ソ開戦を熱望していたのは米国でした。ソ連は、対独ソ戦の二正面対立を避けるため、1941年に日本との間に日ソ中立条約を締結していた関係で、太平洋戦争開戦後も日本との開戦を避けていました。そこで米国は、同じ連合国陣営のソ連の参戦を促すため、1945年2月のヤルタ会談において、ソ連の介入次第で、満州国の利権獲得と南樺太・千島列島の領有を報酬として与えることを密約したといいます。
5月に独国が降伏すると、ソ連は7月のポツダム会談において8月15日に日本に宣戦布告することを米国に伝えます。ところが8月の広島・長崎の原爆投下により日本が想定よりも早くに無条件降伏する可能性が高まり、日本降伏前に米国と密約した報酬を得るため、ソ連は予定を繰り上げて8月8日に日本に宣戦布告したのです。
8月14日の日本のポツダム宣言受諾後も、日本軍に正式な停戦命令が下っていないなどの理由でソ連は戦闘を継続、報酬の獲得に向けて進軍を続けました。ソ連赤軍の進軍自体は、9月2日の日本との降伏文書調印後も終息せず、最終的には満洲・朝鮮半島北部・南樺太・千島列島・択捉・国後・色丹・歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日になって、ようやく赤軍はその進軍を停止します。日本軍が武装解除したのは、9月7日のことでした。
この日ソ戦での日本軍の兵士の死者・行方不明者は明確ではありませんが7~8万人はいたと言われ、民間では停戦後も含め満州国と朝鮮半島では約20万人、樺太では4000人が犠牲となったと伝えられます。成人男性の多くはシベリア抑留を強いられ、婦女は暴行され、本国に還ることができなかった残留孤児・残留婦人も多かったことはよく知られるところです。
戦後、ソ連のスターリンは、千島列島の領有と北海道の半分の割譲を米国に要求します。これに対して米国トルーマン大統領は、北海道は譲らないにしても千島列島については同意してしまうのです。ただし、トルーマンが千島列島のどこまでを認めるかについて明確な線引きをしなかったことが、その後の北方領土を巡る日ソ(日露)両国の認識の相違となりました(北方領土の最初の線引きとなった日露和親条約の関連記事についてはコチラを参照のこと)。
アジア国際関係史を専門とする麻田雅文氏は、その著書『日ソ戦争-帝国日本最後の戦い』(中央公論新社『中公新書』2798、2024年)等において、ソ連が対日参戦の士気高揚に利用したのが1904年開戦の日露戦争の歴史だったと指摘します。日ソ戦当時、日露戦争を扱った小説が増刷され、シベリア出兵中に殺害された革命家の肖像が切手になるなど、日本への復讐を扇動するようなプロパガンダが広まったといいます。
歴史が政治的に利用されるという事例は、今も続いています。近年のロシアのウクライナ侵攻、イスラエルによるパレスチナ・ガザ地区侵攻なども、戦争の正当化に歴史が利用されているという背景があるのです。恨みの連鎖は、留まることを知りません。釈迦牟尼仏世尊(ブッダ)は、「怒らないことによって怒りにうち勝て」「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息(や)むことはない。怨みを捨ててこそ怨みは息む。これは永遠の真理である」(『ダンマパダ』)と説きます。インド独立の父マハトマ・ガンディーは、「目には目を、という考え方では世界中の目をつぶしてしまうことになる」「握り拳と握手はできない」「暴力によって得られた勝利は敗北に等しい。一瞬でしかないのだから」と説きます。これらのメッセージを世界中の人々が肝に銘ずる日が一日も早く訪れることを切望します。


