「鶯渓医院(おうけいいいん)」は、博愛救護事業の先駆者として知られる幕臣奥医師の高松凌雲(1837-1916)によって、明治10年(1877)、上野桜木町1番地(現・台東区根岸1丁目)に開院されました。
高松凌雲は、慶応元年(1865)に一橋(ひとつばし)家の表医師に、さらに徳川慶喜(よしのぶ)の第15代将軍就任にあたり大坂城の奥詰医師を務めました。慶応3年(1867)には遣欧使節団の一員として、徳川昭武(あきたけ:徳川慶喜の異母弟)や渋沢栄一ら一行と渡欧し、第2回パリ万国博覧会に参加して「赤十字」運動を知ることとなります。
帰国後、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いに敗れた彰義隊の渋沢成一郎(渋沢栄一の従弟)や新選組の土方歳三らとともに函館五稜郭で新政府軍と戦った箱館戦争では、幕府軍医として野戦病院「箱館病院」を開き、敵味方を問わず治療にあたりました。
戊辰戦争の後、明治10年(1877)11月、徳川家から借りた上野寛永寺所有地に「鶯渓医院」を開業し、内科・外科・婦人科・小児科を経営、貧者救済組織「同愛社」を設立すると施療券を役所・地主などに配り、それを受け取った約100万人の無料診察を行ったと言われます。かくして同愛社は、博愛社、日本赤十字社など日本における博愛救護事業の先駆けとなりました。
当院は、要伝寺と鶯谷駅とを結ぶ凌雲橋・新坂跨線橋の南側に所在していたことが、『下谷区火災保険地図』下谷区32(1935年11月作図)に見て取れます。同図によれば、国柱会館(天業民報社)の西側に鶯谷旅館、その隣の旧国鉄線路側に鶯渓医院が立地していることが認められ、本図から建物のおおまかな形状も読み取ることができます。また、高松凌雲の自邸は、『日本救療事業史料 同愛社五十年史』の記録によって、凌雲橋・新坂跨線橋を挟んだ反対側の上野桜木町2番地(現・台東区根岸1丁目)にあったことが知られます。
なお、鶯谷から言問通りへと下る跨線橋「凌雲橋」の名は、上野戦争で焼失した寛永寺子院の凌雲院に由来します。「高松凌雲」の名乗りは、パリ万博出立前の慶應元年(1865)のことですので、両者の関係は定かではありません。
同愛社・高松凌雲の詳細は、社団法人編『日本救療事業史料 同愛社五十年史』(同愛社、1928年)、高原美忠編修『高松凌雲翁経歴談 函館戦争史料』(東京大学出版会、1979年)、林洋海著『医傑凌雲―日本に赤十字をもたらした医聖高松凌雲の生涯』(三修社、2010年)、吉村昭著『夜明けの雷鳴―医師高松凌雲』(文芸春秋『文春文庫』、2016年新装版・315頁~)、渋沢青淵記念財団竜門社編『渋沢栄一伝記資料』(渋沢栄一伝記資料刊行会・渋沢青淵記念財団竜門社、1955~1971年)等を参照ください。ちなみに、第60作大河ドラマ「青天を衝け」では、俳優・細田善彦が高松凌雲を演じています。
また、鶯溪医院については、国立国会図書館次世代システム開発研究室の次世代デジタルライブラリーからも関係史料を披閲できます。
尚々、高松凌雲の墓は、東京都谷中霊園の乙5号2側に、徳川慶喜の墓は、寛永寺の谷中第二霊園に、渋沢栄一の墓は、東京都谷中霊園の乙11号2側に、それぞれあります。詳しくは、松本和也著『台東区史蹟散歩』(学生社『東京史跡ガイド』6、1992年)、探墓巡礼顕彰会著『探墓巡礼~箱館戦争関係人物を歩く』谷中編(風狂童子、2018年)等をご参照ください。
(文責 高森大乗)
※ 大河ドラマ「青天を衝け」についてコチラとコチラの記事、国柱会館についてはコチラの記事、彰義隊についてはコチラの記事もご参照下さい。
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