【推薦図書】エルマーRグルーバー他著『イエスは仏教徒だった?』(同朋舎、1999年)

 刺激的な標題がつけられた本書は、ユーラシア大陸の東西の文化交流の中で、仏教がイエスに与えた影響を詳細に分析した研究書。原イエスにみられる異端思想(ローマ・カトリック教会からみての異端思想)の影響は、あるいは『ダンマパダ(法句経)』に説かれるような仏教思想に起因するものではないかと主張。
 本書の特筆すべき点は、著者の恣意的な資料の扱い方に対する反論や著者が紹介しなかった反証をあげて「イエス仏教徒説」を批評する論文が、本書のかなり多くの頁を割いて併せて掲載されていることである。

【本文抜粋(取意)】
 イエスには、若かりし頃の17年間の動向が定かでない。その間、実はイエスは、エジプトにいたテラペウタイと呼ばれる集団に身を置いていた可能性が高い。そのテラペウタイこそが、ブッダ入滅後の紀元前3世紀頃、インドのアショーカ王によって派遣された初期仏教教団の一派である上座部(テーラヴェーダ)の末裔であった。イエスはこの地で、仏教の理念を学び、仏道修行者としてその理念を実践していた。
 その後、パレスチナに戻ったイエスは、ユダヤの教えに対抗して仏教を伝道した。ブッダと同様に極端な苦行を排し、中庸*の道を説いた。それは、限りない尊敬と慎みの道であり、真の危険に直面しても平静を保つ道である。憎しみと暴力とに対する答えは、愛と落ち着きであるとイエスは説く。信者たちに常に謙虚であるよう導き、自我や慢心を起こさないよう説いた。そして、すべての財を捨て、家族や友人との絆を断ち、托鉢修道士として放浪しながらの仏法の伝道をせよと伝えたのであった。
 最初の信者たちは熱狂的にイエスを迎えた。しかし、この熱烈な信者たちも、イエスを完全に理解しているとは言い難かった。彼らはあまりにもユダヤ教的な救世主メシア到来の希望に囚われすぎていた。自分たちの師にメシアとなることを期待し、彼の救いにあずかろうと望みすぎた。それに対して、イエスの活動期間は短かすぎ、聞く者の意識の中に仏法の教えを根付かせるには至らなかった。イエスは、不幸な磔刑(はりつけ)により消え去らなければならなかった。パレスチナは、イエスの命を奪うほど危険な場所となり、弟子や信者たちもこの地でイエスの基本原理を広めようとしたがうまくいかなかった。
 しかし、ローマとの対立が、西暦66年にユダヤ戦争へと発展したとき、彼らにも希望の光がさした。「この世の終わり」の雰囲気の中、正義を求める人々の夢とともに、イエスは黙示的潮流の中に組み込まれ、その教えは狂信者の手に渡り、仏教の伝道者から救世主メシアに変容させられてしまった。(286~288頁)

インドカシミール地方シュリーナガル旧市街ロザバル神殿(Roza Bal Shrine)のイッサー(Issa=伝イエス)のフットプリント

*ホームページ作者註。正しくは「中庸」ではなく、「中道」。中庸とは対立概念の肯定で、「Aでもあり、Bでもある」という立場。中道とは、対立概念の否定で「Aでもなく、Bでもない」という立場。「苦(苦行主義)でもなく、楽(快楽主義)でもない」「過去にも滅せず、未来にも生ぜず」という立場が中道なのである。

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