自分は一体誰?何? 平成31年3月
三月になりました。だんだん暖かくなってきて、桜も咲き始める準備を始めます。気持ちに余裕が出てくる季節なので、今月は少し自分について考えてみましょう。表題の自分は誰?自分は何?って決して認知症の事ではありません。笑
でも、最終的に自分のことさえも人間は忘れてしまうのかも知れませんね。では、反対になぜ忘れてしまうのか。脳の認知障害と考えてしまえばそれまでですが、人間だけではなく犬や猫といった動物も認知症になるのです。先天的な障害もありますが、老いることによって起こる事もあります。でも前向きに人は忘れるという機能があるから、苦しいことも忘れて楽しく出来ます。
脱線したので、ここで本題に戻りましょう。自分は誰なのか?生まれた時に名前をつけてもらったので、何何何男・何何何子ですと名乗れます。でも、それは人が、親がお前はこういう名前なのだよと言われたので、いつの間にか、自分はこういう者なのだと思っていませんか?でも、自分のことなんて実はわかっていません。体の中でどんなことが起こっているのか、こんな感情の時にこういう風になるのだとか、色々経験していって自分を知る機会になりますが、本当の自分とは何なのか。あまり考えた事はないですよね。
仏教では無我という言葉で表現しています。自分とは無我であると言うのです。言葉通り、我は無い者。もともと自分なんてなかったと言うのです。自分は自分ではないと言う事です。なんか難しくなってきました。本当の存在は心一つのみ。と言い切っているのです。
仏教では八識といって、外に出ている姿(六識) 眼・耳・鼻・舌・身・意 これを表層と言います。中にある姿(二識) 末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき) これを深層と言います。
人は表層と深層でできていると言うのですね。特に深層に人は引っ張られやすく、思ってもいないことを突然引き起こしてしまうのです。目で見る、耳で聴く、鼻で嗅ぐ、舌で味わう、体で感じる、心で思う。全て当たり前です。でも、深層によって当たり前ではなくなっていきます。目で見たものが、自分と他の人では違うものに見える。耳で聴いたことが、他の人は違う音に聞こえる。良い匂いと思っていたら、他の人は臭いと言う。美味しいと思った食べ物が、自分以外の人がまずいと言う。同じように叩かれた人が、それぞれに違う痛みを訴える。良い映画を観たけど、自分の思っている感想と他の人は違う。これらのことはよくある事ですね。
人は全て同じように表層を持っていますが、深層は全く別の物を持っています。
それぞれ人は違う生活環境であったり、兄弟も両親の感じ方を小さい時から違う心で捉えています。書物から受け取る知識であったり、映像から受け取る知識であったり。人それぞれが違う深層を持っているので、同じ人間でも、同じではないのです。
でも、仏教では表層も深層も構成という捉え方をします。ただ、生きていく上での構成であって、そのもの自体は自分ではないというのですね。じゃあ、自分は一体誰?一体何?仏教の唯識という考え方は、ただ心のみです。自分という存在は、ただ心のみがあるというのですね。その心に宇宙全体が収まっていると書かれています。
人の頭で考えることは全て実現可能と言われます。科学者はモデルという概念で、まず理解しやすい世界を考えて実現化していきます。モデルは仏教では表層です。そして数式が深層かもしれませんね。数式が変われば全てが変わる。ガリレオガリレイは、宇宙は数学という言葉で書かれていると言いました。誰も地球が自転していることを信じなかった。それでも地球は動いている。地動説を唱えて裁かれているときに発した言葉です。姿・形を変えながら、全ては存在しているが本体は自分の別にある。
まだ誰も信じていませんが、ブッダは人は死んでも「それでも人は生きている」と法華経に説かれました。法華経では、本体は永遠であり、決して滅しないものと書かれています。善も悪も死も自殺も行為であって、それを根本にして次の構成が変化していくだけ。本体は因・縁・果・報で永遠に変化していくと説かれています。
その変化を妙法蓮華経と言います。深層を良い方向に導いてくれるものも妙法蓮華経。そして前に上げた八識の次に九識(妙法蓮華経)があります。実はみんな妙法蓮華経だったのですよ。だから本体はみんな仏です。本体が仏であれば、この世界も浄土です。これを信じられるか、信じられないかは皆さんにお任せします。
法華寺霊神祭引用