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廣榮山 蓮華寺

【Koeizan Rengeji】

〒563-0361 大阪府豊能郡能勢町今西203-5

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地域情報

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【能勢町/横浜市中区】能勢法華成立から吉田新田開拓

横浜市中区の関内。大通りから少し離れた場所で、真っ白な壁をささやかに主張し、路地の一角に佇むギリシア料理専門店「スパルタ」。

ふと、この店のボリューム満点の“ムサカ”が懐かしくなって、所用の帰りに立ち寄ってみることにしたのですが…若者向けの外装に塗り替えられた、全く別の店に変わっていました。暫し、呆然と立ち尽くす…
この辺りは、私が病院の付帯施設開設の為、足繁く県庁通いをしていた頃、よく歩いていたエリア。プライベートでも、イセザキモールの有隣堂書店、馬車道の十番館や勝烈庵、横浜スタジアム…とてもとても思い出深い場所だったんです。そんな関内駅界隈が、私が住む故郷と大変密接な関係にあることを最近知りました。

お話は、今から400年ほど前に遡ります。
1603年(慶長8)、征夷大将軍となった徳川家康により江戸幕府が創設され、時代は群雄割拠の戦国の世から、武家政権が取り仕切る封建国家へと遷り変わりました。その8年後の1611年(慶長16)に、摂津国能勢(現大阪府豊能郡能勢町)に初代吉田勘兵衛良信翁が誕生します。一般には能勢のお生まれと広く伝わっていますが、歴史作家の家村耕氏によると、出生は京都亀岡の本梅(ほんめ)で、その後間もなく吉野に移り住んだとのお話でした。
勘兵衛翁が生まれて程なくして、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の時代、家康が二条城で豊臣秀頼と会見し、1615年(元和元年)には大阪夏の陣によって豊臣家は滅亡します。勘兵衛翁は清和源氏の血筋を継ぎ、戦国大名波多野秀治の一族波多野秀親の孫として生まれました。従兄弟の能勢領主であり、能勢妙見山の開基でもある能勢頼次公に従って数えで24歳の頃に江戸に移り、日本橋本材木町に木材と石材の店を始めるようになります。そして、30代半ばで江戸城修築の御用木材を承り、諸侯お出入りの豪商にのし上ったと、勘兵衛翁が建立した常清寺所蔵の資料には記されています。家を壊して延焼を防ぐ当時の防災手法、寺社仏閣の建築ブーム、1649年に発生した慶安の大地震などで、材木商のニーズは高まる一方だったのです。
 
波多野氏最後の当主である波多野秀治は、戦国時代から安土桃山時代にかけての丹波国の大名で、織田信長に叛旗を翻し、八上城での籠城戦で奮闘するも遂には明智光秀に降伏し、安土にて磔刑に処されました。
余談ですが、この八上城の攻防において、八上の危機を救おうと命を賭して戦った僧団がありました。篠山盆地を取り巻く山々は、古くから信仰の地として多くの僧坊が建立され、修験者が山を往来していました。そして西山麓の曽地という地には、「四十九院」と呼ばれる一大寺院群があったそうです。 そこで修行する僧たちが、兵糧攻めにされている八上城に兵糧を運び込んでいたのです。それを知った光秀は、四十九院に攻め入って堂宇を尽く焼き払い、修行僧の首を次々に刎ねました。今も曽地の一角には、弔いの為の首塚が祀られています。
 
さて、勘兵衛翁は農業経営にも人並み優れた才覚を発揮し、1656年(明暦2)に幕府の許可を得て、現在の神奈川県横浜市中区および南区に跨る地域の新田開発に乗り出します。入り海だった広大な場所を埋め立てることは困難を極めましたが、1667年(寛文7)に約120ヘクタールに及ぶ田畑を拓くことを成し遂げました。その新田は、1669年(寛文9)4代将軍徳川家綱より『吉田新田』と公認され、勘兵衛翁は苗字帯刀を許されました。
横浜市内の小学校高学年で使用されている社会科の副読本には、“横浜の礎”勘兵衛翁のことが詳細に紹介されており、横浜の実業家で明治初期に横浜港の埋め立て事業を手掛けた“横浜の父”高島嘉右衛門翁、保土ヶ谷宿の三役(本陣、名主、問屋)を務めた名跡苅部清兵衛翁らと共に“横浜三名士”に数えられています。
また勘兵衛翁は、新田開発の成功後には、地域の氏神として1673年(寛文13)に社殿を創設(現 日枝神社)し、熱心な法華経信仰者でもあったので、身延山久遠寺二十九世日莚法主に、先に干拓した千住中村の地(東京荒川区)に寄進する旨を申し出て、諸堂宇を建立(運千山自性寺、後の運千山真養寺)しました。
横浜市南区の栄玉山常清寺(画像)は、勘兵衛翁が自性院日身上人(運千山真養寺開山)を招いて建立した寺で、新田守護の為、 身延山第三十一世一円院日脱法主を開山として創建した寺で、身延山久遠寺の直末の寺院です。故に明治以前は、吉田家関係者以外檀信徒入信を許可せず、吉田家菩提寺として供養の拠点であったそうです。
 
能勢の地に再び領地を回復せられ、長年の悲願を達成された能勢頼次公。そして、ほぼ時を同じうして生を受け、能勢吉野の山里で20年余りを過ごされた吉田勘兵衛翁。
血縁関係にあるお二人の波乱の人生において、為政者と商人という立場こそ違え、お題目の精神がお二人の背骨にはすっと通っていて、各々の精神的支柱、行動の指針になっていたことは、歴史を具に顧みても間違いのないところでしょう。
1686年(貞享3)7月26日、吉田勘兵衛翁死去。
 
法 号         運千院殿常清日凉大居士
辞世の句      妙なるや法の蓮の華の香を しばしとどめて浮世経にけり
 
【参考資料】
常清寺HP
はまれぽ.com 「今年は、初代吉田勘兵衛 生誕400年」
南吉田町内会HP
篠山市HP篠山の民話集
Wikipedia
能勢史 等
家村耕氏より聞き取り
【画 像】
吉田家菩提寺 栄玉山常清寺(横浜市南区清水ケ丘)

追 記
その後ネットで検索してみましたら、スパルタは同じ関内の吉田町の方に移転して、元気に営業していることが分かりました!
連日盛況のようです。今度、行ってみよ~♪
Greek restaurant SPARTA

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