1月29日、本山本満寺で今年初めての部経会が開かれました。
本山本満寺は、正式名称を『廣宣流布山 本願満足寺』といい、京都日蓮宗八本山のひとつです。また、能勢の地とこの本満寺は、大変に深いつながりがあります。
能勢氏について記された史料は多くありませんが、寛喜3年(1231)10月18日の「鎌倉4代将軍藤原頼経下文写し」には、清和源氏である源頼仲が、能勢の地で地頭職を安堵されたことが記されています。以来能勢氏を名乗るようになり、戦国期には能勢を根拠としてその領地を維持します。そして天正8年(1580)、二人の兄を相次いで亡くした能勢頼次公は、19歳の若さで家督を継ぎます。
天正10年(1582)には本能寺の変が起こり、頼次公は明智光秀に与力します。しかし、明智方が破れ、豊臣秀吉の軍勢に追われる身となります。妙見山(当時、為楽山)に篭城するも、秀吉方の圧倒的な攻勢に落城。頼次公は能勢を脱出して備前岡山に落ち延び、大覚大僧正を開基として能勢家の先祖の寄進により建てられた妙勝寺(岡山市船頭町)に身を寄せます。
しばらくの間不遇の時を過ごしますが、慶長4年(1599)には京都上鳥羽の実相寺住職であった弟の計らいで、頼次公は徳川家康に召抱えられて家名を再興します。その後間もなく、荒れ果てた能勢の地に帰り、布留神社の再建などに尽力します。そして、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで戦功を立て、家康より能勢の地を再び与えられることになるのです。
その年の秋、代々に法華経信仰を継ぐ頼次公は、この能勢氏再興を契機に、京都本満寺13世(後の身延21世)寂照院日乾上人に帰依し、山や屋敷などあわせて東西五町、南北六町を永代寄進します。また、父の菩提を弔うために、慶長6年(1601)に清普寺を開創(玉持院日然上人開山)し、以降同寺は能勢氏の菩提寺となっています。
元和3年(1617)、身延を退隠された日乾上人は、能勢地黄(じおう)に覚樹庵を創立して布教の拠点とします。その後開山を寂照院日乾上人、開基を能勢頼次公とする真如寺を覚樹庵境内に創建。恩人家康公の菩提を弔い、そして能勢氏の祈願所とします。
日乾上人の教えに感銘を受けた能勢の寺院は、次々と日蓮宗に改宗します。また、頼次公の深い帰依もあり、能勢皆法華(のせみなほっけ)と呼ばれる領内改宗が始まったのです。従って、能勢の日蓮宗寺院の殆どが、本満寺の旧末寺(孫末寺)になる訳です。
本満寺様には知り合いのお上人方もいらっしゃいますし、紹継塾などで長くお世話になっておりましたので、ここに戻って参りますと何となく心が休まります。
昨年5月から始動しました京都部経会による法華経一部経読誦会も、今回で8回目を数えます。昨年11月には、名古屋市昭和区の浄昇寺様(山川潮暎御住職)にて、東京部経会との合同セッション。そして12月は当山にお越し下さり、能勢では初めての部経会が開催されました。
本年も会員の御自坊を会所として毎月開催されますので、各聖と共に読誦行に精進して参りたいと思います。
【参考資料】
能勢関西身延無漏山真如寺HP
日蓮宗霊場能勢妙見山HP
能勢氏千年の歴訪
「がらくた置場」by s_minaga
古樹紀之房間
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