亘理郡山元町でも、津波にのまれながら奇跡的に生き残った「一本松」がありました。
砂塵舞う荒野に、その松は唯ひとつ、“淋”と、或いは“凛”と立っています。積年の風雪に耐え、そして想像を絶する大津波の圧力と、無数の瓦礫と塩に、何度も首根っこをつかまれて地べたを這わされたにもかかわらず、再び頭をもたげて新芽を出し始めたのです。
まさに松寿千年翠(しょうじゅせんねんのみどり)という言葉すら、凌駕するほどの生命力です。
陸前高田での大掛かりな保存作業などをご覧になって、「たかが松に。」と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、空と地面の色がほとんどの現地で、実際にその青々とした緑を目の当たりにすると、何か人智を超えた神々しささえ感じます。
東日本大震災から丸2年が経ち、全国各地で慰霊の法要が営まれました。私は御正当の命日の3日前より現地に入り、2地区での活動を通して、多くの方々と交流させていただきました。
今までとは少し違った活動形態ではありましたが、前回・前々回と比べて淡々とお話される方が増えたように思います。また、震災以来初めて、当時の様子や現在の心境を口にされる方もいらっしゃいます。それは、傾聴させていただく私たちにとっても、大変に大きな試練でした。あまりに残酷な現実と深い悲しみに、何度も胸が締め付けられました。
あるご婦人のお話を伺いました。彼女は震災の1年半前に、息子さんを亡くされました。来る日も来る日も仕事に明け暮れる生活でしたが、人一倍責任感の強い彼は決して弱音を吐かなかった。それでも、日に日に憔悴していく様を、母は感じ取っていました。家族に対して次第に言葉が乱暴になったり、物に当たったりする彼を、両親は静かに見守りました。
普段と変わらぬ初秋のある日の朝、彼は自ら命を絶ちました。
「幼い頃、聞き分けのない我が子を諭しました。大人になって幸せに暮らして欲しいから、あの子と何度も向き合いました。」
「親だからこそ、言えたはずなのに。あの時だって向かい合えたはずなのに。私は必要もない遠慮をしてしまっていました。」
そして間もなく津波が押し寄せ、ご主人とお義母様を亡くされた。ご主人の御遺体は間もなく発見され、「カッと見開いた主人の目は、今でも自分の胸に突き刺さったまま。」だと彼女は仰います。
「何故、助けられなかったのか。私は、誰一人として助けられないのか。」
「まだ義母を探し続けているから、悲しみに暮れても生きていられるのかもしれない。」
そんな出口のない自問を繰り返しながら、彼女は生活されています。
「星の数ほど涙を流したけれど、涙って涸れないものですね。お話を聞いて下さってありがとうございます。」
彼女は最後にそう呟くと、私に会釈され、皆の輪の中に戻られました。
失意のどん底でもがき、自分の人生を元に戻そうとしている矢先に、あらゆる希望の芽をなぎ倒していくかのように災いが押し寄せ、情け容赦のない仕打ちを受けている人達がいます。もちろん被災された全ての方が、大きな傷を受けながらも元の生活に戻ろうと日々努力していらっしゃいます。2ケ月前の仮設訪問の際にも、今回のご婦人と同じような境遇に置かれた方のお話を伺いました。やはりその方も、私にお話しになったのが最初でした。震災前に親族や友人と共有していた深い悲しみも、大規模な被災により口に出せなくなったと言います。
2年が経って初めてお話しになられた方もいらっしゃれば、この先何年を費やしても口に出せないまま苦しまれている方が大勢いらっしゃるかもしれません。
人間はそんなに弱くないと思いたい。あの一本松のような生命力や逞しさも、それぞれが持ち合わせていると信じたい。
ただ、松とは違い、人は「誰かのため」「何かのため」に生きることが出来ます。そしてそれらを一瞬にして失った時、人は計り知れない喪失感に苛まれながらも、その「事実」と共にまた歩き始めるしかないのです。
そうであるからこそ特に我々仏教徒は、この国の何処にあっても、亡くなられた方への鎮魂と共に、深く潜在する涙の受け皿になるべき使命があると思うのです。