4月22日・23日の2日間にわたって、京都下京区中堂寺西寺町にあります学要山勝光寺様(藤田尚哉御住職)で、『法華経千部読誦会』が営まれました。
毎年この時期に行われている、法華経の一部八巻を1日がかりで、2日間読誦する法要です。
勝光寺様は、日蓮宗の寺院で「洛中法華21ヶ寺」の一つです。鎌倉時代末期から室町時代の京都では、法華信仰が急速に広がり、「題目の巷」(だいもくのちまた)、或いは「法華の巷」と呼ばれるほど、町の至る所で「南無妙法蓮華経」のお題目が唱えられ、町衆の支持を得ていました。当時の洛中には、21ヶ寺もの本山が甍を並べていたのです。
京都において今日の日蓮宗の礎を築かれたのは、日蓮聖人の孫弟子にあたる龍華樹院日像菩薩(りゅうげじゅいんにちぞうぼさつ)です。日蓮聖人から帝都弘通のご遺命を受けた日像上人は、永仁2(1294)年に満を持して上洛されました。そして「三蟄三赦」(さんちつさんしゃ)と呼ばれる三度にもわたる都からの追放など、度重なるご法難に対して決して怯む事なく布教活動を展開し、先日650回の御遠忌を迎えられた大覚大僧正妙実上人(だいかくだいそうじょうみょうじつしょうにん)という優れた後継者も現れ、ついには帝都布教の悲願を達成しその基盤を確立されました。
繁栄の裏には軋轢も生まれました。法華信仰の台頭は、一向一揆に対抗した武装化(法華一揆結成)や、山門と呼ばれ当時の仏教界の中心であった比叡山延暦寺との確執を膨らませ、ついには天文5(1536)年の「天文法華(てんぶんほっけ)の乱」(天文法難)により、法華の寺院はことごとく焼き討ちされ、帝都弘通の後退を余儀なくされたのです。
同じ法華経を読誦する天台宗が、何故法華を攻めたかという疑問が残りますが、元々法華一乗思想を宗門思想の根幹としていた伝教大師の教えから、慈覚大師円仁と智証大師円珍の時代に真言密教を取り入れたことにより、当時の京都四條門流の日蓮宗とは本質的に似て非なるものになっていたのです。
この乱により1542年まで京都で法華は禁教とされた後、ほどなくして京都に戻ってからは再び息を吹き返します。その後の「安土宗論」や「方広寺千僧供養会」など、時の権力者による政治的な圧力に日蓮諸宗は翻弄されながらも、京都16本山を中心に宗門の伝統は連綿と受け継がれています。
下京区中堂寺西寺町には多くの寺院がありますが、勝光寺様の伽藍はひときわ目を引きます。境内には「たちばな保育園」を併設されており、日中には100名近い園児の元気な声が聞こえて参ります。
この御寺院様には、御縁をいただいて去年の千部会から出仕しております。この国土の安穏を祈り、法華経を一心に読誦し、合間に子供たちの楽しそうなハシャギ声を耳にする時、身体が震えるほどにこの上ない法悦を感じます。
自分にこんな質問を投げかけます。“これが人類の運命なのか?”
私の言っていることはとてもシンプルなものですよ。
発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。
発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。
愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。
これらをもたらすべきなのです。
ホセ・ムヒカ大統領(ウルグアイ)のスピーチ
打村明氏『Hana.bi』より抜粋
勝光寺様のホームページはコチラ↓
http://www.shokoji.com/index.shtml